思索日記

本を読んで思ったことを書いてます。

欲望について [本紹介・読書感想/前編]

「欲望について」はタイトルの通り、人間の欲望について語った本です。約半分は心理学・生物学的な側面から、もう半分は哲学・宗教的な側面から語っていて、バランスがいいのが特徴です。 多角的な分析により知的好奇心がくすぐられるし、見る視点は違っても似たような結論が見えてくるので人生の大切なことがわかってくる感覚が得られます。 著者のウィリアム・B・アーヴァイン氏は哲学の教授で、哲学ぽいトピックを扱ってはいるものの内容は哲学に限らないので難しく考えずぜひ読んでみてほしいです。

今回本当にいい本で、これまで読んだ中でトップクラスでよかったかもしれない!!サピエンス全史ファスト&スローのような目から鱗の驚きはなかったけれど、 人生においてとんでもなく重要なことを平易に語ってくれているのがなにより良かったです。

人生において超重要なことを言っているので読んで

多くの悩みになんらかの欲望、特に社会的欲望が関わっているので、苦しい・辛いと感じるほとんど全ての方に本書をおすすめできます。 他人が羨ましい、惨めな気持ちになる、嫉妬する、頑張るのが辛い・・・そういった苦しい感情の手放し方のヒントがたくさん本書に散りばめられています。 本書の後半では、そういった苦しい感情を手放した方法の具体的な実例をあげて解説してくれています。

気になった人はぜひ読んでほしいという思いもあるけれど、それ以上に内容が重要すぎるのでとりあえず本記事だけでも読んでほしい! ちなみに本書は2022年3月現在電子書籍化されておらず、表紙デザインはややかためで哲学然としているため手に取りづらいかもしれないですね。 しかし意外にも文体は固すぎず難しすぎることはなく、かといってカジュアルすぎるということもないので万人に対しておすすめです。

まとめ:欲望に関する重要な3つの点

本書を読んで、欲望に関して重要な点を3つに絞って要約してみました。(本書内でのまとめではなく個人的な意見としてのまとめです)

  • 自分が欲望を生み出すのではなく、情動が欲望を生み出して自分を動かしている。
  • 欲望の一種である社会的欲望は特に身の回りに溢れているが、ネガティブな側面が多い。
  • 認知的適応という心理的な現象により、欲望を満たし続けることはできない。今あるものに満足することが幸せへの最短ルートであることを知れ。

今回とてもいい本で、愛着も湧いたのでしっかり解説してみます。長くなったので前編と後編に分けました。(分けても長い)
前編は主に本の内容の紹介、後編は主に自分の感想や意見としています。

本書の魅力

魅力1. 分野横断的

本書は心理学、生物学、哲学、宗教をバランスよく取り入れていて、欲望について分野を横断して解説しています。

前半は主に心理学と生物学の側面から欲望について考えます。 人間がいかに欲望に支配されているか、欲望が存在する意義について等、欲望についての事実ファクトを提示してくれます。 現代人にとってはこういう事実は科学っぽい視点から提示してもらった方が受け入れやすいので、この語り方は理にかなっていると思います。 *1

後半は主に哲学と宗教の側面から、欲望との付き合い方について考えます。 心理学・生物学よりもはるかに膨大な時間をかけて「欲望との付き合い方」について考え、思想と実践を練り上げてきた実績のある哲学と宗教からは学ぶべきことは多いはず。 このうち宗教は仏教・キリスト教イスラム教を取り上げます。 仏教は仏陀によるメインストリームの宗派のみならず、禅宗も取り上げています。 キリスト教カトリックに加え、アーミッシュ、フッター、オナイダといったプロテスタントのいくつかの特徴的な宗派についても取り上げます。

魅力2. 理論と実践のバランスがいい

ネット上で読むことができる、多くの素人による人生相談や恋愛相談は、相談者の心の癖や欠点をズバリ指摘するところまではできていることがあるけれど、それを具体的にどうやって克服するか (≒ どうやって自分のやりたいことと折り合いをつけていくか = 欲望とどうやって付き合っていくか)についてまでは面倒を見てくれないことが多いように思います(個人の感想です)。 それに対して本書では、先に述べたように、哲学と宗教を取り上げることで、欲望との実践的な付き合い方について逃げずに向き合っています。

本書で取り扱う欲望の理論には、「適応」「隣人効果*2」「一人の人間の中に複数の欲望発生源がある」といった事象があります。 これらによってヒトである以上避けては通れない心の・・・いや、脳の・・・癖が暴かれていきます。 どれもよく知られている現象であり、私は正直サピエンス全史、ファスト&スロー、快感回路、豊かさの誕生 などの本からこの手の情報を得ていたので新しい発見はそれほどありませんでしたが、 「なるほど、欲望について という視点でまとめるとこうなるんだな」という気づきを得られてすごく整理されました。 これらを全部読むくらいなら本書だけ読むのがおすすめです!(どれもいい本ですけどね)

魅力3. まとめが便利

これはなんというか、、実用的な魅力なのですが 本書の最終章「結論」がちゃんと結論やっているところがとても便利です! 本書の構成に合うように、全体を眺め直して要約してくれています。少し忘れかけてた頃に前半内容の復習をしてくれるので、学習効率がいいのが嬉しいところです。

本書のポイント

欲望を追いかけて

人は欲望に従って生きるよう心理的・生物的にプログラムされていますよね(なんとなく実感でわかると思います)。 本書のパート2では、主に心理学と生物学的観点から欲望の性質を見ていきます。

欲望の種類分け

欲望のチェーン。ターミナル欲望の先にたくさんのインストルメンタル欲望がつながっている。

私たちの生活はいくつもの欲望であふれています。ごはんを食べたい、トイレに行きたいといった生理的なものもあるし、好きな人と話したいとか仕事サボりたいといった複合的な原因によって生まれていそうな欲望もあります。 いくつも欲望がありますが、実は欲望の多くは他の欲望を満たすために道具的に生成されています。 別の欲望を満たすために生み出される欲望を、本書では道具的欲望(インストルメンタル欲望)と呼んでいます。 道具的欲望により、お腹すいた < ごはん食べたい < ごはん作ろう < 買い物に行こう のように、欲望のチェーンが形成されます。 ちなみに、理性はこれをうまく生成するのが得意です。*3

その一方で、その欲望のチェーンを辿っていくと最終的に行きつく根源的な欲望も見つかるはずですね。 欲望のチェーンを辿っていった先にある根源的な欲望は、本書では最終的な欲望(ターミナル欲望)と呼ばれます。 根源的な欲望の多くは情動*4から発生し、快を追い求め・不快を避ける最も基本的な欲望となります。 もう一つのタイプとして「なんとなくそうしたい」という欲望もありますが、こちらは情動由来のものに比べるととても微弱です。

情動とBIS

いくつかの欲望は情動から生まれ、感情を伴い、その発生を自分で直接*5コントロールすることができません*6。自分からそう望もうと決めたわけではないのがこうした欲望の特徴です。 情動による欲望には呼吸したい、安全な場所で寝泊まりしたい、好きな人とセックスしたい、社会的に成功したい、などがあり、これらは生物的欲求と社会的欲求に分けられます。 こうした情動による欲望はすぐさま理性によるフォローを受けて、それをうまく満たしてくれるような手段を考案し、道具的欲望を作り上げます(欲望のチェーンを形成する)。

情動は究極的には、繁殖と生存の可能性を高めるものに対して与えられています。 本書ではこのことを、「情動はBIS=Biological Insentive System 生物的インセンティブシステム によって生み出される」と表現しています。 もし情動がないと仮定すると、偶然に頼らなければ摂食や安全確保などの行動を取らなくなってしまいますよね。これでは繁殖と生存につながらないので、人に肉体的・精神的な快と不快を与えることで生物学的なインセンティブを与えて人を動かすのです。

社会的欲望=他者からの目線について

エドヴァルド・ムンク「嫉妬」。BISによる制裁を受けているところ。

人間の生活には賞賛されたい、好かれたい、感謝されたい、社会的地位が上だと確認したい、嫌われたくない、普通でありたい、目立ちたくない、目立ちたいなどなど多くの社会的欲望が隠されています。 こうした社会的欲望と呼ばれているものも、結局は「仲間はずれにされない」「仲間と協力しあっていく」「繁殖の可能性を増やす」などが背景にありそうで、究極的にはBISによって生み出されると言えそうです。 ある欲望が自分だけで生み出したものなのか他者との関係の中で生み出されたものなのかを判定するには、自分以外が誰もいなくなった世界を想像してみるといいでしょう*7。そして、そのような世界でも、あなたは「それ」を望むだろうか?と自問してみましょう。答えがNOなら、それは社会的欲望だと言えそうです。(例:化粧、昇進などを考えてみましょう)

「他人よりも/他人同様いい暮らしがしたい」という社会的欲望はとても一般的に見られます。認め難いことですが。 また、私たちには順位的価値をとても気にしている、という性質があり、 物質的欲望も順位的価値に基づいて決めているケースが結構あります*8。(他人が広い家に住んでいるから自分もそうしたくなる。他人がおしゃれなお店に行くから自分もそうしたくなる。) こうした社会的欲望を満たせていない、ということを認めたがらないのも人間の特徴です。*9

こうした社会的欲望は情動に基づいた欲望なので、それが満たされない時には不快な感情が引き起こされて罰を受けるし、満たされた時には快の感情による報酬をもらえます。

  • 罰:嫉妬、悲しみ、不安、恐怖、孤独、寂しさ、怒り、嫌悪、後悔、ストレス、絶望、不満、恥、当惑、挫折など。
  • 報酬:楽しみ、安心、幸福、嬉しい、満足、充実、シャーデンフロイデなど。

社会的欲望についての個人的意見

ここは著者の意見というよりは私個人の意見になりますが、 こうして見てみると、私たちは社会的欲望により駆動されていて、社会的地位の確認と向上にたくさんのエネルギーを日々使っていることがわかりますよね。 ですが、本当にそういう生き方を望んでいるのか?ということを考え直してみる必要があるのではないのでしょうか。

社会的欲望に正直になりすぎて、他者に認められるために他者の望むことばかりしたり、 他者の価値基準に合わすぎた結果自分のしたいことができなかったり、もっと進むと自分の価値基準の方が崩れてしまう、という現象が起こり得ます。 これは身近にすでに起こっている現象なのですが、気づいているでしょうか?

自分が美味しいと思った料理を出してくれるレストランの評価が低かったとき。
自分が面白いと思った映画の評価がレビューサイトで低かったとき。
あなたは自分の価値基準を信じることができているでしょうか?

一部の人は、他人の評価による物事の価値に影響されているのではないでしょうか? *10

自分の価値基準ではなく他者の価値基準を採用することについて、本書著者のアーヴァイン氏は本文中で次のように言及しています(強調筆者):

ライフスタイルを選択するにあたって、ほとんどの人はためらうことなく、自分が生きている社会の基準に順応する。順応こそは、もっとも抵抗の少ない道なのだ。あなたが順応ーーまわりの人々が選んだような生き方をするーーすれば、彼らはあなたのライフスタイルを賞賛するだろう(中略)。称賛と尊敬、おまけとしていくぶんかの羨望を投げこんで、彼らはあなたに報酬を与える。 人は自分のためではなく他者のために生きていると私が言ったのは、とくに誇張したわけではない。ほとんどの人にとって、生きていくということは自分が望むことと、他者が望み、期待することとの間での絶えざる妥協にほかならない。こうして彼らは、人生に対する支配権の多くを捨ててしまい、それを親戚や隣人、そして全く見知らぬ人にまで、委ねる。それもすべて彼らが、他者の賛嘆をうれしがり、その軽蔑とからかいを恐れるからなのである。

社会的欲望に正直になりすぎるということは、自分の欲望や価値基準を他者に決めてもらうことにつながります。 もっというと、それが満たされるかどうかも他者に委ねられているので、幸福も他者の手にかかっているということが言えませんか? そんな状態は、果たして自分の人生を自分で選択していると言えるのでしょうか?

ミスウォンティングと適応

欲望という仕組みは繁殖と生存に対してインセンティブを与えてくれますし、生きる上での活力も与えてくれます。 ですが人間の欲望には「ミスウォンティング」と「適応」という2つの重大な特性があるため、欲望を満たすことと幸せは直結していません

ミスウォンティング:「手に入れてみたら、それが欲しいものではなかった。最初から。」

ビーチでのんびり、いいなぁ〜 って思うのはミスウォンティングかもしれない

皆さんも「それを手に入れたら、それができたら、どんなに満足するか」の見積もりを間違えてしまった経験はないでしょうか?思ったほど楽しくなかったとか、想像していたほど満足しなかった、とか。
働きすぎで疲れている人は、休暇をとってビーチでのんびりできたらなと思うかもしれませんが、実際にビーチでのんびりする機会を手に入れられたら退屈してしまうことだってあり得るわけです。
モテなくて彼女ができなくて惨めな思いをしている人は、彼女ができたらどんなに幸せだろうと想像を膨らませるかもしれませんが、実際に彼女ができたら感情的なアップダウンを繰り返して辛い思いをすることだってあり得るわけです*11
仕事が忙しくて給料が低いことを嘆いている人は、中身がなく退屈だとしても給料がたくさんもらえる仕事の方が羨ましいと思うかもしれませんが、実際にそういう状況にある人の辛さを想像できていないわけです*12

このように、実際に手に入れたときの感情の見積もりを間違えて、「手に入れてみたら、それが欲しいものではなかった」と思ってしまう現象のことをミスウォンティング(要求ミス)と言います。 私たちの認識にはミスウォンティングが隠されているため、欲望に従いそれを満たすことが幸せに直結しなくなってしまっています。

適応:「手に入れてからしばらくしたら、慣れてしまった」

こちらはミスウォンティングよりももっと頻繁にみられる現象です。 極端にお腹が空いていて「とりあえずなんでもいいから食べたい」とか言っていたのに、実際に満腹になって満足してしばらくしたらもっと別の美味しいものが食べたくなったり、もう食べたくなくなったり、空腹になる前に悩んでいたこと(彼氏との関係、大学に進学するか就職するか、などなど)を思い出してまた心配になったりするわけです。 このような「欲望を満たすことによる心理的満足はいつまでも続かない」現象のことを適応と呼びます。

適応のせいで、欲望は一時的に満たしても満たされきることはありません。
適応は生物の進化上重要な特性だと考えられます。というのも、欲望を満たしたからといっていつまでも満足し、次の行動をとらないようでは繁殖と生存に著しく不利になってしまうからです。

適応の仕組みを抑える(つまり、今あるものに満足する)のは心理的特性に逆らうことであり、非常に困難を伴います。
(これは個人の意見ですが、これを抑えることは確かに困難ではあるものの、絶対に不可能ではないし幸せに生きるためにとても重要だと考えています。 このことは後編で書こうと思います。)

欲望との付き合い方

これまで欲望という現象の性質や特徴についてみてきました。 このような性質や特徴がある中で、私たちが欲望に対して取れる態度は大きく3つに分類できます。

  • 快楽主義
  • 禁欲主義
  • 欲望とうまく付き合っていく

快楽主義は欲望を満たすことによる報酬を最大限受け取ることが可能ですが、同時にBISによる制裁もたくさん受けることになります。 束の間の満足を何度となく味わうことが可能な反面、それが束の間に過ぎないことを何度となく味わうことになります。 *13

禁欲主義は欲望を満たすことによる報酬をなるべく断り、その代わり欲望を満たせないことによる制裁がますます増大していくのを防ぐ態度です。

欲望とうまく付き合っていく方法は、欲望を一切断つのではなく、自分で立てた目的や目標と欲望がたまたま一致していた場合には欲望のもたらす報酬を受け取り、そうでない場合には欲望を追求しないという立場です。 この方法では、社会的欲望に対しては特に批判的な立場をとります。 本書のパート3ではこの「欲望とうまく付き合う方法」について、社会的欲望を克服した人々を実例としてじっくり観察し語っています。

欲望とうまく付き合っているたくさんの実践者

本書では仏教、キリスト教イスラム教、ストア派およびエピクロス派の哲学、そしてエクセントリックと呼ばれる人々を取り上げ、欲望とうまく付き合う方実践的な方法について分析しています。 仏教では全体的に、キリスト教は概観した上でプロテスタントのうちアーミッシュなど変わり者と呼ばれる人々を取り上げて紹介しています。本書ではこの実践者のトピックにかなり多くの分量を割いていますが、本記事ではその中から私が気になったストア派哲学について取り上げてみました。

アーミッシュの馬車。自動車を所有することによる羨望を抑えるため、皆一律で馬車に乗る。Nicholas A. Tonelli from Northeast Pennsylvania, USA, CC BY 2.0, ウィキメディア・コモンズ経由で

ちなみに・・・特に日本では宗教や思想に対する懐疑的な見方が広がっているし、宗教や思想から学ぶことなんて何もない・なるべくなら関わりたくないという感想を抱く人も多いと思います。 それはとても勿体無い!ここでは特定の宗教にターゲットを絞ることはしないので、距離を置いたままで構わないからぜひ持ち帰れるものは持ち帰るのが健全な向き合い方だと思います。 *14

ストア派哲学では、欲望が満たされないときの苦しみ(ネガティブ感情)を減らし、心の平静を得ることを目標としています。 ストア派(Stoic)はストイックの語源で、確かに一見禁欲的に見えることの実践も推薦しています。 ですが、よくこの思想を観察してみると、そこにあるのは単なる禁欲ではないことも見えてきます。

セネカは、「貧しさの実践」を提案しています。

ときどき、何日かの間、もっとも質素な食べものーーそれもごく少量ーーだけ食べ、ごわごわした粗末な衣服を身につけるという期間を作ってみる。それから、(自分に)尋ねるのだ。みながいつも恐れているのはこれなのか、と。」このようにして貧しさを貧しさを実践したあとでは、実際にはそれがそれほど悪くないのに気づくだろう。その結果、いつか貧乏になるかもしれないという思いで心が乱されることも、少なくなるだろう。

セネカは、金を持たない苦しみは、金を失う苦しみよりも小さい と言っています。 富そのものが悪いのではなく、富への執着が問題 なのです。 貧しさの実戦は、富への執着を避けるためのトレーニングとして使えるかもしれませんね。

またセネカは、持っているものはなんであれ、それに満足することを提案しています。これらは心理的適応を阻む取り組みと言えます。 つまり、欲望とうまく付き合っていくために、今あるもので欲望を満たすことができているのであればそれによる報酬は受け取るし、 今ないもので欲望を満たせていない部分に関してはその(ないことによる、BISからの)罰は受け取りつつも、それ以上の欲望が生まれるのを防ぐ という態度です。*15

ストア派では欲望についてよく観察すること、自分で対処可能なものとそうでないものを区別し、対処可能なものにのみ対処することを提案しています。 対処不可能な出来事についてあれこれ悩んだり、対処不可能な欲望を抑制しようとしたりすることは無駄だからです。 このように本来のStoicは必ずしも禁欲一辺倒とは限らず、そこには欲望と付き合うためのヒントがたくさん隠れていそうです。


前編では僭越ながら、本書の紹介と、ざっくりとした内容の解説をしてみました。 後編では本書を読んで私が思ったことを書いてみましたのでよろしければご覧ください。

奥付

  • 欲望について
  • 著者 ウィリアム・B・アーヴァイン
  • 訳者 竹内和世
  • 2007年発行 白揚社

*1:もしこういう「欲望とは?」のような問いをいきなり宗教的な方面から語られても、説得力がないどころか引いてしまう人は多いと思う

*2:自分の境遇に対する満足度は境遇の絶対的レベルでなく、他人と比べた時の相対的レベルによって強い影響を受けるということ。「豊かさの誕生(下)」等でも言及

*3:ここでいう理性=ファスト&スローのシステム2かと思ったけどちょっと違うかも?システム2は遅い思考を担当し、システム1が即座に作り上げた感覚や感情などをチェックする(ことになっている)。欲望のチェーンは瞬発的に生成されることもあればじっくり生成されることもありそうなので、システム1らしさもシステム2らしさもあると言えそう。

*4:有斐閣 現代心理学辞典によれば、情動とは「進化の過程で獲得された、生き残りの可能性を高める素早い情報処理と反応のための仕組み」。感情と似ているが、立ち上がりまでの時間や継続時間が短く、生理的・行動的に強い反応として現れるのが特徴。喜び、怒り、恐怖、悲しみなど。

*5:直接コントロールはできないが、行動により間接的にはコントロールすることが可能。例えば食欲を抑えるために、レストランのメニューでデザートのページを開かないようにする、など。

*6:発生をコントロールできないだけであり、例えば「辛い思いをすることにはなるけれど」その欲望に従わない選択をすることはできる。このことは後でまた述べる

*7:ここでは自分以外誰もいなくなった世界がもたらす精神的影響の側面は傍において、物質的側面だけに着目する

*8:ソースタイン・ヴェブレンが顕示的消費と呼んだものもこれにあたりそう。参考: Conspicuous consumption - Wikipedia

*9:本書には、「羨望は犯罪者でさえ最後まで隠し通す」というエピソードが登場する。人を殺してしまったことを自白することはあるかもしれないけど、その本当の理由として羨望があったということは断固として認めようとしない。

*10:商品やサービスの価格という価値基準の尺度は、まさにこれを体現したものだと言える(ケインズ美人投票: 市場経済は、自分が美人だと思った人ではなく、皆が美人だと思う人に投票するルールになっている美人コンテストに喩えられる)。

*11:伝聞ですよ、ええ。そうですとも。

*12:デヴィッド・グレーバー「ブルシット・ジョブ クソどうでもいい仕事の理論」より。本当の意味で社会のためになっていない、「クソどうでもいい仕事」がこの世に存在することについて、それで悩んでいる人が社会に想像以上にたくさんいることについて書いてある

*13:現代の世の中はこの快楽主義をベースとした資本主義で回っている。 資本主義はこれまで人間の暮らしぶりを劇的に改善した。資本主義(を支える根幹である私有財産制)は自分の欲望を満たすことを肯定してくれるし、 お互いに欲望を満たすために仕事を頑張り合い、そのおかげで物質的な豊かさを手に入れることができた。 このアプローチは確かに満たされきることはないけれど、そのおかげで他者に対して価値を提供し続けることができていると捉えることもできそう。 この前編では、この後見る「欲望とうまく付き合っていく」のが欲望に対する最もおすすめのアプローチだという立場で話を進めていくけれど、 後編では、欲望が存在することを認めた上で「他人に喜ばれる形で欲望を満たす」という別のアプローチについても触れるつもり。

*14:そもそも科学的なものの見方が大きく広がったのはほんの400-500年のことで、それまで我々の心の拠り所になっていたのは宗教だった。科学のない時代、宗教は人々を大きな物語でまとめ上げ、見知らぬ人々が協力することを可能とし、人がよりよく生きていくための方針を提供した。(ちょっと美化し過ぎたかも・・・?) 現代になって科学的合理主義の方が宗教よりも大衆に受け入れられているのは、科学的合理主義の方が「人の心に入り込むのがうまかったから」である。これは、人類に対して甘い果実をもたらしてくれる資本主義が、もっと大きく育っていくために科学的合理主義に頼ったからである。資本主義がもたらしてくれる果実・・・禁断の果実でもある・・・は人類の欲望を次々と満たしてくれるので人類は抗えない。これが現代で科学的合理主義の方が宗教よりも大衆受けしている理由だ。しかしこのことは、宗教と科学的合理主義を横にならべて見たときにどちらの方が人間の心をより理解しているかという論拠にはならないはずだ。 こと人の心に関しては、2022年現在、まだまだ宗教も科学に勝るとも劣らない洞察をしているといっていい。ただし今後脳科学および心理学の発展により、科学の方が宗教よりも人の心を理解する時代はじきに訪れるだろう

*15:本書だけから得た知識ですし、曲解している部分もあるかもしれません。まだまだ勉強します