思索日記

本を読んで思ったことを書いてます。

さびしさ、欲望および自己実現の一般理論

2021年の秋、私の大好きなPodcast番組であるコテンラジオが 性の歴史 という大変興味深いシリーズを公開しました。 私はサピエンス全史 以来、常識が揺らぐタイプの知的好奇心を追い求めていたため、このシリーズにはどハマりしたのですが その後のコテンラジオ番外編でAV監督・二村ヒトシ氏をゲストに招いた回があり、こちらも大変面白かったので自分なりに一生懸命理解し、 自分なりの解釈や整理や他の書籍からの情報収集を行った上でアウトプットしたものがこの記事です。

本記事では 社会的欲求 について取り扱います。 「欲望について」 でも社会的欲求について少し触れましたが、 今回は社会的欲求についてもっと掘り下げて考え、 自身の社会的欲求をエネルギーとして捉え、前向きに発散することでみんなで幸せになれる ことを主張してみたいと思います。

そういうわけで、今回の記事は普段と違って、単一の書籍を読んで紹介したり要約したり感想を述べたりするものではありません。 (主要な参考文献として二村氏の書籍やコテンラジオの番組を使っています。最後にまとめて掲載しています)

三大欲求の異端児

元番組は、性欲の性質について考察するところから始まります。そして 三大欲求の一つである性欲は、食欲・睡眠欲とは違って満たされなくても死なない という指摘が登場します*1。 本記事はその気づきをなぞるところから始めてみます。

※注: 以下、マイルドですけど性的表現が何度か登場します。本文中では直接的な表現を避け、少しぼかしています。脚注に直接的な表現を押し込んでいますので分かりづらかったらそちらもご確認くださいね。

性の歴史では、人間の性欲の発現の仕方や対象が時代や文化によって千差万別であることを明らかにし、「性欲の形のほとんどは文化的に決まる」と結論づけています*2。 紳士淑女の皆さまは何となくわかるかと思うんですが、性欲って単なる生理的欲求じゃないですよね?単にスッキリしたり、快感を感じたいだけなのであれば、セルフケアで十分なはずですよね。それでも他者とのつながりを求めるという背景には、性欲の主成分が生理的欲求というよりも社会的欲求である ということがありそうです。*3

言い換えると、性欲は なんらかの形で他者との関わりを求めていること であると表現できます。 もちろん、性欲は生理的欲求の成分を含んでいます。けれども、歴史的に見て性欲は文化による違いがとても大きいこと、性的快感を満たしたり子どもを産まなくても死なないが社会的つながりがないと孤独に耐えられないこと、満足できる夫婦・恋人関係には「心も体も」満たされることが必要であること*4 などを考えると、性欲の主成分は社会的欲求である ことが言えるのではないでしょうか。

生理的欲求も社会的欲求も、生物的インセンティブに支えられている

「欲望について」で触れたとおり、食欲や痛みを避ける欲求など、生理的欲求の多くはBIS(生物的インセンティブシステム) *5によって支えられています。BISが情動を引き起こすので、それによって主人であるヒトの行動をコントロールしようとします。これがうまく働かなければヒトは酸素が足りなくなっても呼吸しようとしないし、右手が融けそうでもやかんから手を離そうとしなくなってしまいます。 同様に、社会的欲求もBISによって支えられています。社会的欲求が満たされているとはすなわち、他者と良好な関係が築けていて協力し合えることを意味するので、繁殖と生存の確率を上げるためにBISは「他者とのつながり」に対してインセンティブを与えたと考えられます。

ちなみに、食欲も一部は社会的欲求によって駆動されていそうです。性欲よりもこちらの方が衝撃的かもしれませんね。これについては後ほど改めて触れます。

それでは、性欲の正体が社会的欲求であることがわかったところで、この不思議で強力な欲求について、もっと深く探求してみましょう。

社会的欲求

 性欲の主成分は社会的欲求ですが、社会的欲求の現れ方は性欲だけとは限りません。むしろ性欲以外の形で発現されることが多いです。

たとえば、社会的欲求は他者とのつながりを求めたり、他者に存在を認めてもらいたいという承認欲求として発現します。 ほかには褒められたいとか、社会的に成功したいとか、もうちょっとマイルドだと他者から拒絶されたくないとかも社会的欲求の現れ方です。 もっとクリエイティブな形だと、他者に貢献したいとか、なにか物を作って社会に残したいといった欲求として現れることもあります。

社会的欲求とさびしさ

食欲が満たされないときには空腹を感じ、呼吸ができないときには苦しさを感じることでBISによる罰を受けますが、社会的欲求が満たされないときには さびしさ という形でBISによる罰を受けます。 さびしさとひと言で表現しましたが、類似する感覚だと 空虚感 とか 虚しさ とか、 孤独 とか 疎外感 とかが近いかもしれません。

社会的欲求エネルギー

社会的欲求はさびしさを引き起こすネガティブな欲求であるととらえることも確かに可能ですが、 これをエネルギーとしてとらえてポジティブに発散することもできます。 社会的成功を求める感情はそのまま、勉強や仕事を頑張るエネルギーとして役に立ちます。拒絶されたくないという感情や承認欲求は、他者に対して失礼なく振る舞ったり集団の和を乱さないようにする原動力になります。他者への貢献やものづくりへの情熱に関しては、クリエイティブさを発揮して具体的に社会に対して貢献することにつながります。 こうして社会的欲求をエネルギーとしてとらえるとすると、 さびしさを感じている状態は「エネルギーが余っていて、もてあましている状態」 と捉え直せるのではないでしょうか。

食欲と社会的欲求

食欲も、一部が社会的欲求で説明できると思います。 ある程度のカロリーと栄養素が摂れて、ほどほどに美味しいものを食べていれば生物としての必要を満たせるのに、私たちはなぜもっと美味しいものを求めるのでしょうか? それ自体が美味しくて大好き、という人も確かにたくさんいると思いますが、「なんとなく高価だったり人気だからありがたいもの」という理由でもっと美味しいものを求める、ということもありませんか?あるいは、「せっかくだから美味しいもの食べたい」とか「生活レベルを落としたくない」くらいの理由で、ちょっと高いものを食べることがないでしょうか。 「欲望について」の中でも触れましたが、このような形での食欲の出方は、人間が順位的価値を重要視していることが背景にあり、自身の社会的ステータスを確認するための消費行動の一種だと言えるのではないでしょうか。この人より普段から美味しいもの食べているとか、自分はこのくらいの食生活をするに値する人間だとか、自分はこの人よりも美味しいものを知っている(グルメだ)とか、そういったタイプの食欲の源泉は社会的欲求にあると言えそうです。

本当の性欲

これまでみてきたように性欲は社会的欲求の一つであり、社会的欲求は性欲以外にも色々な形で発現するのですが、 自身の社会的欲求に対するセンサーの解像度が低いと、どうしたらこのさびしさを解消できるのかわからなくなってしまいます。 さらに、一度それが性欲に分類されてしまうと、 性欲はなんとなく語りづらい・隠すべきものとされているためにそれ以上深く考察されず、なんとなく「自分は性欲が強い」と勘違いしてしまうことに繋がりかねません。 しかも本当は性的に満たされたい訳ではない(あるいは性的にそれを満たすことが最も効率的ではない)ので、なんとなく空虚な恋愛に走ってしまう、みたいなことになりそうです*6。 このように自分自身の社会的欲求について見つめ、クリティカルな満たし方について考えることは自分の幸せのためにとても大切なことです。

それではこの後は、そんな社会的欲求の具体的な満たし方についていくつか例を挙げながら見ていきましょう。

社会的欲求の満たしかた

しかし、問題は同じでも解決策はさまざまだ。人間はこの問題を解決するために、動物を崇拝し、人間を生贄に捧げ、軍隊による征服をおこない、あるときは贅沢にふけり、またあるときは禁欲的にすべてを断念し、または仕事に熱中したり、芸術的創造に打ちこんだりする。さらには神への愛や人間愛によって、この問題を解決しようとしてきた。このようにさまざまな解決策がある。その解決策の記録が人類の歴史なのだ。
ーーエーリッヒ・フロム「愛するということ」より

具体的な社会的欲求の満たし方・さびしさの解消方法はいろいろありますが、核となる考え方は 自分がやりたい形で他者に貢献すること と表現できます。社会的欲求を満たしながら幸せになる方法はこの方法が最強だと思います。さびしさをエネルギーとして捉えて、それをテキトーに使うのではなく他者への貢献に昇華させるというわけです。 形はどんなものでもいいわけではなく、自分に合ったやり方を見つけるといいと思います。それがいわゆる「自分がやりたいこと」なのだと思うのですが。 ここでは「自分のやりたいことの中で他者に喜んでもらう方法」のうち一般的なものについていくつか挙げて考えてみます。

恋愛する

これまでみてきたように性欲の源泉は社会的欲求なので、「本当の性欲」で書いたことに気をつけつつも、それにストレートに対処するのは自然な方法なように思えます。

本記事を書く上で元ネタになった二村さんの番組や書籍はこれをメインのテーマにしているので詳しくはそちらを読んだり聞いたりしてほしいですけど、 パートナーを傷つけないようにすることとか、なんらかの性的欲望を満たしてあげることとかを、自分のやりたいこととうまく折り合いをつける というのが恋愛関係における「自分のやりたいことの中で他者に喜んでもらう」に該当しそうです。 もっと直球な表現をすると、「自分も相手も楽しいデート」とか「自分も相手も気持ちいい性的関係」とかになるんでしょうか。 まずは相手のことを傷つけないようにすること、もっと仲良くなってきたら相手のしたいことを解放して満たしてあげて、自分もやりたいことを正直に伝えること*7が、この「自分のやりたいことの中で他者に喜んでもらう」理論から見えてくる上手な恋人・夫婦関係です。

仕事を頑張る

現代社会でもっとも一般的な他者に貢献する方法はビジネスだと思います。ビジネスで他者に貢献と言われてピンとくるでしょうか? 理解しやすくするために、ちょっとだけ歴史を紐解いてみましょう。

現代のような資本主義社会になる前、すなわち大量に物を作って売る会社ができる前の世界では、身の回りで使うものは一つ残さず手作り品でした。この時代には物の大量生産をしませんでしたし、道具を改良して生産性を上げようという動機も生まれませんでした(私有財産制が確立されていなかったり、税金が高くて実質的に機能していなかったりしたため)。このため「社会は物質的にどんどんよくなっていくものだ」という共通認識はなく、その共通認識がないせいでお金を借りづらく*8、新たなビジネスも生まれにくいという状況でした。

そういう状況の中、資本主義が登場してようやく「新しいビジネスに対して投資することで、お金を儲けることができるし物質的豊かさも向上する」という社会が到来します。その後、工業製品だけでなくサービスやエンターテインメントなど一種の精神的豊かさも、同様にこの資本主義の枠組みの中にはまり、現代の「豊かさ」とそれを増やすための取り組み(=社会貢献の一種)のほとんどが資本主義の枠組みに収められることになりました。言い換えると、 なにか社会貢献をしようと思ったら、資本主義の枠組みに入ってビジネスすることが最もスムーズにことが運ぶ ようになったわけです。*9

そういうわけで、現代社会で一番受け入れられやすい他者貢献の方法は資本主義の枠組みに入ってビジネスすることだと言えそうです。 ビジネスに対してお金儲けと社会貢献のどちらを重要視するにせよ、私たちは「お金儲けを主観的に重要視したとしても社会貢献に、ちゃんと、概ねつながっている」社会に生きています。「概ね」と書いたのは結構大事で、現代の資本主義では少しずつほころびが見えつつあります。これについては後ほど書きます。

順位的価値と資本主義とさびしさの解消

資本主義がここまで世界中に浸透した理由は他にもたくさんあるのですが、ここではさびしさに絡めて「仕事を頑張ることが順位的価値や競争と相性が良い」ということについて触れておきたいと思います。

わたしたちの消費行動の多くは、自身の順位的価値を気にすることによって誘発されています。ここでいう順位的価値とは、自分の所属する社会でのステータス・順位・階級・地位・役割・人気のようなものを指します。わたしたちの消費行動にはこの類の消費行動ーーーたとえばブランド物を買うとか、車を所有するとか、広い家を所有するとかーーーが多く含まれています(顕示的消費といいます)。こういった消費行動に無縁だと思っている人もいるかもしれませんが、自身にとって生活の最低ラインをどこまで落とせるか?を考えたとき、そのラインと生物学的に必要な生活の最低ラインとの差分は「社会的・順位的なもの」と言えるのではないでしょうか。つまりこういうことです:日々ちょっとした美味しいものを食べる、ちょっとしたおしゃれをする、旅行する、といった消費活動は生物としての必要性からくる活動ではなく、 社会の中で自分が「こういう人間だ、このくらいのステータスの人間だ」と周囲や自分にアピールするための活動であると捉えることも可能 だということです。*10

また消費に限らず生産活動についても、自分のステータスや階級などをアピールするという意味合いが含まれていることがあります:たとえば高いタワーを建てる、他人よりもうまい文章を書く、会社を大きくするなど*11。こうした活動は順位的価値を気にすることに関係しています(=社会的欲求に根ざしている)が、 これに関連する欲求が満たされないときに承認欲求が満たされていないと感じる、言い換えるとさびしく感じる と言えそうです。

まとめると、「資本主義がさびしさと関係がある」というのには2つの意味があります。1つ目は資本主義を支える他者貢献の精神が社会的欲求に由来するということ。2つ目の意味は、資本主義は競争原理に支えられていて、それは社会的欲求に由来するということです。資本主義はこの2つの方向から人々の社会的欲求にマッチしたため、ここまで受け入れられるようになったということも言えるのではないでしょうか。*12 *13

ものづくり・ボランティアなど

趣味でのものづくり*14やボランティア活動も、他社への貢献という形で社会的欲求に上手に対処している方法の一つです。これらの活動はお金をもらえない・自主性がかなり必要になるなどの点で一般的な会社での仕事と異なる性質を持っていて、仕事と相補的な価値を持っていると思います。

すなわち、 一般的な会社での仕事がお金を原動力にし、利益が出ることを大義名分にしないと社会貢献できないのに対し、趣味やボランティアではお金以外を原動力にして動ける ということです。私たちにとって、お金に換算できない価値は本当はたくさんあるはずです:楽しさとか、安心とか、主体的に活動している感覚とか、良好な人間関係とか、人生の意義とか、持続可能性とか、環境への配慮とか、長期的な人類への貢献とか。 資本主義的な世界では、仕事でこういう価値を増やしたいと思った時、必ず「利益に換算するとどうなるのか?」を考え、説明できないといけません(稟議が通らない)。最近の経営ではこうした価値にも少しずつ気がつき始め、働き方改革と言ってみたり、従業員満足度に気を配ったりしているようですが、資本主義内でそれに取り組む以上どうしても従業員が辞めないことによる経済的価値で説明せざるを得ません。一方でボランティアや趣味では、楽しさや人間関係や環境への配慮それ自体をかけがえのない価値として認めて活動することができます。これは一般的な会社では追求できない、素晴らしいことだと思います。最近少しずつ芽を出しはじめているポスト資本主義は、この流れに沿った思想だと言えるでしょう。

仲間と楽しい時間を過ごす

ここまで他者貢献という形での社会的欲求の満たし方についてみてきましたが、なんだかんだ一番ありがちで手っ取り早くさびしさを解消する方法は仲間と楽しい時間を過ごすことだと思います。具体的な方法はさびしさに飲まれてしまっている私なんかよりも読者の皆さんの方がきっと詳しいはずですが・・・たとえば飲み会とか、一緒に旅行するとか、趣味を共にするとか、ただ集まっておしゃべりするとか・・・こういった活動をさびしさを埋めるための活動として理解しておくと、本当にさびしく感じたときにうまく対処できるかもしれませんね。*15

(以下、思いつきの無責任な仮説ですが) それから、こうした活動をしてもまださびしさが解消できないとき、これまでみてきたような「貢献」の考え方を取り入れてみるといいかもしれないと思いました。たとえば飲み会とか遊びに誘わなくてなんとなくさびしい思いをしている時、自分から誘ってみることを他者への貢献と捉える(相手も誘われ待ちしているかもしれませんよ)とか、話をしたり遊んだりするときに友人のやりたい欲望を満たしてあげるとか(愚痴を聞いて欲しい人に対してはそうしてあげたり、真剣な話をしたい人に対してはそうしてあげたり)。

他者貢献が最強な理由*16

この章の冒頭で、「社会的欲求を満たしながら幸せになる方法は他者貢献が最強だ」と書いたのですが、このあたりでその理由について考えてみたいと思います。

さびしさとは他者との触れ合いが不足し、社会的欲求が満たされていない時に感じる感情でした。 ですからさびしさを解消するためには、何らかの形で他者と交流し、混ざり合い、究極的には合一することが必要です。 この合一の必要性に対し、フロムは「祝祭的興奮状態*17、集団への同調*18、創造的活動によりこの必要性を部分的に解決できるけれど、どれも完全な回答ではない」と言います。そして、 愛こそがこのさびしさの問題への完全な答えなのだ と言います。愛するよりも愛されたいとか、他者への貢献よりも他者から貢献されることで自分の存在価値を感じたいという方にとっては、いまいちピンとこないかなという気がしますけど。

他者を愛することは、相手のことをよく知り、相手へよく配慮し、相手の中に入り込み、究極的には合一することです。 なので、他者を上手に愛することができれば(他者を愛せているという手応えが得られれば) さびしさの解消につながる、というわけです。

愛の本質は与えることです。与えることで自身がまず活気付き、与える行為を通じて自己を表現し、与える行為を通じて自分の持てる力と豊かさを実感するのです。一見同じように見える「与える」でも、諦めと犠牲を伴って与えること、見返りを求めて何かを与えること、はこれらの愛の本質から逸脱しています。つまり、純粋な他者への貢献こそが本来の愛だということです。*19

以上の「さびしさの解消と他者との合一、他者との合一と愛、愛と与えることがそれぞれ関係している」という論理構造が、社会的欲求を満たしてさびしさを解消するためには他者を愛する(=他者へ貢献する)ことが必要である理由です。・・・納得していただけたでしょうか?

いろんな方法を持っておくといいかもね

ここまでみてきたように、社会的欲求はとても様々な方法で現れます。他の欲求と結びつくことで肥大化するし、隠蔽されて「本当はさびしい」ということに気が付きにくくなったりします。自分の欲求の根っこにさびしさがあることに気がつかないと、たとえば無駄に食べ過ぎてしまったり、惨めな気持ちに飲まれてしまったり、仕事しすぎで体を壊してしまったりしそうです。自分の社会的欲求の現れ方について理解しておくことと、それに対処する方法を複数持っておき必要に応じて使い分けることが、幸せに生きるための重要なスキルであると思いました。 

(余談) 好きな人と心も体もつながりたい?

本題から外れてしまった余談です。(これもただの仮説です)

恋愛とか性欲について、これまで社会的欲求が主成分として入っているのでは?という話をしてきました。

恋愛したいとか性的に欲求不満だとかいうことって、生理的欲求と社会的欲求のどちらの成分も入っていると思うのですが、いろんな人をみているとその比率や結びつき方には個人差がかなりある ように思います。雑に分類してしまうと、「好きな人と心も体もつながりたい」という形で欲求不満が現れるバランス型、ムラムラする感覚を強く抱く生理的欲求優勢型、さびしさを埋めたいという感覚が強い社会的欲求優勢型に大きく分かれそうです。

それから、これは筆者が大学生の時に友人と話していて得た気づきなのですが・・・大学生の時、友人3人と「性の目覚め」について話していた時、私が「エッチなことと恋愛が結びついたのっていつくらい?」となんとなく聞いてみたところ、友人達から「未だに結びついていない」と返ってきてとても衝撃を受けた、ということがありました。 その出来事を、これまで話してきたような「さびしさと性欲」について考える際にふと思い出したので、こう解釈してみました:性欲において、生理的欲求と社会的欲求の結びつきが弱いタイプの人もいるのです。こういう人は、社会的欲求は恋愛意外で満たせるし、生理的欲求はセルフコントロールができたりするので、あんまり恋人がいらないタイプだったりしそうです。

このような「性欲の現れ方の個人差」について意識しておくことができたら、幸せな恋人関係や夫婦関係を続けていく上でお互いのすれ違いを防ぎやすくなるのではないかなと思いました。

まとめ

本記事では性欲という少しセンシティブな話題を入口にして、人間一般の最も重要な課題である社会的欲求の満たし方についてじっくり考えました。 だいぶ大きく出た詐欺タイトルをつけてしまいましたが、他者への貢献と自己のやりたいことの折り合いをつけることで社会的欲求、つまりさびしさを解消できるという一般的な法則は見えてきたんじゃないかなと思ってます。ぜひ皆様も、自分の社会的欲求を見つめて、自分に合った他者貢献のやり方を見つけてみてください。

参考文献

類似の記事

note.com

性欲とさびしさの類似性を指摘している記事。この記事ではさびしさがたまに性欲に擬態しているという捉え方をしています。

ameblo.jp

「性欲」の解像度を高めて分析を試みている良記事です。

*1:番組内では一般論としてそういう指摘があるよねという形でサラッと終わらせていますが、個人的にはなるほどと思いました

*2:詳しくは性の歴史本編を参照。本当に聴き応えがあるので時間をとってぜひ聴いてほしいです。男性器・女性器崇拝、同性婚、近親相姦、禁欲、女性の扱い、人権思想などなど、性にまつわる文化の多様性がよく分かります。ここまで多様であることを思い知らされると、自分たちの社会の性文化について相対化して見ることがだいぶやりやすくなると思います

*3:単に射精したりオーガズムを得たいだけならばマスターベーションで十分ですよね?けれども多くの人間が、恋人作るなどして、リアルな人間関係の中で性欲を満たすことを望んでいるわけです

*4:射精したり子供産まなくても死なないが、(中略)満足できるセックスには「精神的にも肉体的にも」満たされることが必要である

*5:生存と繁殖の可能性を高めるために生物に備えられた本能で、強い情動を生み出すことで生物に行動を促すようにしているシステムのこと。生存と繁殖に有利な行動には快感という報酬を伴い、不利な行動には不快感という罰を伴うようになっている。

*6:さびしさを埋めるために、あるいは他人から求められることで自分の価値を確認したいためにいろんな人とエッチしちゃう、みたいな事例ありますよね

*7:性欲は抑圧されがちなので、本当はこういうことがしたい!ということはお互いになかなか言いづらい。特に、パートナーと親密であるほど言いづらいことがあるみたい(パートナーに嫌われたくないから)。二村さんはAV監督のお仕事の中で、女優さんが自分の欲望を「AVの台本があるからこそ」解放できることもあるということを言っていて、いかに日常生活の中で性欲が抑圧されているか・それを開放する需要があるのかがよくわかる。余談ですけど、二村さんはさらに「そうやって自分を解放して欲望を丸出しにしている姿が一番エロい」と言っていてすごく同意しました。性欲に限った話ではなく、たとえば美味しいものを食べようとしてうっとりしている女性の姿とかにもどことなく魅力を感じます^^(あれ、これ自分の性的嗜好の話??)

*8:社会が物質的にどんどんよくなっていっているという考えがあれば、高い利子をつけてお金を貸しても貸倒れのリスクが小さくなるのでお金を貸しやすく・借りやすくなる。

*9:身の回りにある物のうち、 株式会社が作っていない 物を探してみるといかにそれが少ないかわかると思います。物質的豊かさのほとんどは資本主義に支えられているために、なんらかの形で社会貢献しようと思ったら資本主義的な要素ーーたとえば株主からの賛同を得て資金調達するとか、従業員に給料を払うとか、利益が出たら株主に対して還元するとか、従業員が頑張るインセンティブを売上や利益率に連動させるとか、新しい事業を始めるときにそれがどのくらい社会貢献につながるのかではなくどのくらい儲かるのかで説明するとかーーを取り入れざるを得ないのが現代です。ネガティブな言い方をしましたけど、資本主義の論理でうまく説明しさえできれば、それがどんな形の社会貢献であれ資本主義は大歓迎です。資本主義の枠組みに入った方がスムーズに運ぶとはそういう意味です。

*10:「欲望について」で触れた隣人効果についても参照のこと。人間の幸せは社会的なステータスに大きく影響を受ける。つまり、周りの人間よりもいい暮らしをしているかどうか、などに影響を受けやすい。

*11:偏見だったり考えが甘いところがあると思うけど、こうした「競争的な活動」の原動力って男性ホルモンに起因している部分がありそう。コテンラジオと番外編でファルス信仰について触れていたけど、このあたりに関連性があるのかもね。

*12:資本主義がうまくいっているシステム的な理由については「豊かさの誕生」で詳しく述べられています。この記事はその内容を批判する物ではありません(多分相反する物でもありません)

*13:多分資本主義以外にも、このように社会的欲求とうまくマッチしたことで広がった文化はたくさんあると思います。SNSとか、各種ナレッジコミュニティとかもそれっぽい

*14:自家消費を含みますが、作った後他人にあげることをイメージした方がわかりやすいかも

*15:あまり深め切れていなくて雑に書いちゃったけど、「さびしさと飲み会」とか深め甲斐のあるテーマかもしれない。これとか

*16:本節は「愛するということ」のなかで、エーリッヒ・フロムが述べている内容を参考にしています

*17:お祭りや、その中で古来行われた乱交の儀式など。現代では、酒やドラッグによる興奮にとって代わられることもある

*18:集団の一部になりきって自我がほとんど消えている状態。同じ習慣を共有したり、同じ制服を着たり、同じ思想を土台として考えたり。

*19:フロムは一般的に言われている愛を「成熟した愛」と「未成熟な愛」の2つに分けて考えた。どちらも他者との合一・結合を指して愛と呼んでいるが、成熟した愛は自分の全体性と個性を保ったままの結合であり、そうでない愛は未成熟であると言った。未成熟な愛は、たとえば赤ちゃんと母親の関係のように相手に依存しきっている/依存されている状態があり、これを指して共棲的結合と呼んでいる。