今更取り立てて言うまでもなく、SNSでの見せかけの幸福アピールは多くの人にとって何の得にもなっていない。あまり投稿していないという人にとっても、「完璧な瞬間」が次々と流れてくるタイムラインを眺め続けて、自身とのギャップで惨めな思いをした経験がある人は少なくないと思う。まして自分で多少の投稿をする人にとっては、「完璧な瞬間」をシェア*1することの楽しさと虚しさは一度ならず何度も味わったことがあると思う。
インスタ映えの理想 VS 現実。 pic.twitter.com/P3zuKS6eks
— ヴィエンナ (@ViennaDoLL) 2020年10月3日
ヴィエンナさんのこういう投稿がウケたのは、単に「あるある〜w」というだけではなく、人々がこうしたSNSの「いびつさ」になんとなく気づいていてそれを可視化してくれたからという側面もありそうだ。
SNS疲れという言葉が流行ったのはもう何年前のことだろうか・・・ずいぶん前からこうしたSNSのいびつさは指摘されているが、現在でもSNSの勢いは衰えていない。YoutubeのCMでGoogle Pixelシリーズの紹介として、「消しゴムマジック・音声消しゴムマジックが使えます!」というコピーが今でも使われている。「完璧な瞬間」を作り出すためのツールは相変わらず大人気だ。
先ほどからこうしたSNSにおけるアピールの「いびつさ」の話をしているけど、すでにピンと来ている人もいればピンと来ない人もいると思う。「個人の趣味嗜好の領域だよね?何か問題かな?」と思う人もいるかもしれない。本記事では、「はい。問題大ありです!」という主張を試みる。また、本シリーズでは、こうしたSNSにおけるアピールの問題からスタートし、人の幸福全般についてのより深い理解の必要性を訴え、社会や経済の成長を幸せファーストなものに転換することの提言を試みる。*2
SNSにおける幸せアピール
FacebookやInstagramではしばしば「完璧な瞬間」のみが共有され、利用者は他人の投稿を見て自分の人生を比較してしまい、不幸せに感じてしまうことがある。また、「いいね」やコメントの数が自己価値感と強く結びついてしまうこともある。TikTokは短いビデオを共有することに特化したSNSで、クリエイティブな内容や楽しい瞬間が強調されるが、ここでも理想化されたライフスタイルや見栄えの良い映像が強調されがちで、現実とのギャップを感じさせる。(SNSとは少し違うが)YouTubeにおいても、特に「ライフスタイル」や「VLog」のカテゴリでは、理想的な生活や成功体験が強調され、非現実的な期待や比較を促してしまう。
これらの現象から早くも、SNSが幸福に与える影響について、重要な示唆が読み取れる。それは、
- 人々は幸せを相対評価する。このため、SNSで見られる他人の「完璧な瞬間」と自分のリアルを比較して、惨めな思いをしてしまう。*3
- 承認欲求を満たすためにSNSに頼ってしまい、自分の価値の指標を外部に預けてしまう。
ということだ。さらにSNSにおける相対評価は、「いいね」数の比較という形でも顔を出す。他者との比較&承認欲求充足の合わせ技だ。
「人々は幸せを相対評価する」というのは、人々の心がもともと持っている心理的特性だ。私は本シリーズを通して「社会を幸せファーストに転換する」ことを訴えていくつもりだけど、こうした人の特性を変更することはできないと思っている。だから特性を変えようとするのではなく、理解し制約として受け止めることが重要だ。人々は幸せを相対評価してしまうけれど、それが負の影響を及ぼして暴走するのを防ぐにはどうすればよいだろうか?と考える。
ポピュラーカルチャーと広告
映画、テレビ、Youtubeなどのポップカルチャー、街中やメディア上の広告では、成功や愛や美といった要素が頻繁に描かれる。こうした消費主義的な文化は、幸福に関する私たちの理解を曇らせて欲求をコントロールし、特定の方向に向かってねじ曲げる。この過程は、以前に『消費資本主義!』の本の解説で取り上げた。
たとえば映画やドラマではしばしば、「成功したキャリア」と「完璧な恋愛」が幸福の象徴として描かれる。映画『ラ・ラ・ランド』では、主人公たちの成功と恋愛関係、夢と現実の関係や幸福の追求を描いている。贅沢なライフスタイル、派手なパーティー、高価な車やブランド品などが、成功や幸福の指標として提示されることも多い。
広告の中でもとりわけ脱毛と転職の広告は、こうした文脈の中でしばしば取り上げられる。脱毛広告は「理想の美」を提示し、それに沿わない身体を持つことをコンプレックスとして捉えるべきだというメッセージを伝える。完璧な肌の状態が社会的な成功や幸福感に直結しているかのような印象を与え、個人が自身の外見に対して不必要なプレッシャーを感じるよう仕向ける。転職広告は、現在の職場やキャリアパスに満足していない人々に向けて、新たな仕事を通じて「真の成功」や「満足」を得られるというメッセージを発信する。
これらは視聴者に、物質的な豊かさや華やかな生活が幸福の源泉であるかのような誤解を与えかねない。真の幸福感は外見やキャリアの成功、物質的な豊かさだけに由来するものではなく、人生の意義のような内面的な充足感や自己受容、他者との良好な関係等から来るものだ。次回の第一章では、こうした幸福感に関する心理学的な知見のいくつかを紹介する。
先ほどSNSの項で「問題大ありです!」と書いたのは、SNSを楽しんでやっている人が問題だというよりは*4、「人の幸福は相対評価に影響を受ける」「成功・完璧・華やか が重視される」という事実から、SNSの問題点が見えてくるよね、という意味だった。SNSやポップカルチャーや広告の例で見たように、私たちの日常には「幸福についての誤った物語」が埋め込まれている。
なぜ幸福に対する正しい理解が必要なのか
SNSやポップカルチャーや広告を駆使したマーケティングにより、人々の欲望をハック&コントロールして不必要なコンプレックスを刺激された結果、他人と比較してしまって不幸になる。マーケティングする側も望んでやっているというよりは、そうまでして需要を作り出さないとライバルとの競争に負けてしまう。詰んでる!地獄か??
これまで人類は無数のイノベーションを起こし、飢饉や洪水のような重大な問題から、「自分が送ったテキストメッセージが他人に読まれたかどうか今すぐ知りたい」といった些細な問題まで解決してきた。しかし需要を見つけ出しイノベーションを起こし続けるという営みは、本当にいつまでも持続可能なのだろうか?
・・・いや、ちょっと問題提起を間違えたな。いつまでも持続可能なのか?というよりも、いつまでもイノベーションを起こし、経済成長を続けなければならないのだろうか?現代の資本主義社会を前提にした場合、この問いに対する答えは”Yes”となる。だがその理由は、「経済成長が人々の幸福に結びつくから」ではなく、「成長し競争に勝つことが宿命づけられている」からだ。言い換えれば、資本主義というゲームのルールがそうなっているから、に過ぎない。
私は、この状態がすごく勿体ないと思う。資本主義ゲームに勝つためだけに、どれだけ多くの人の才能を無駄にしているのだろうか?その才能と時間があるなら、もっと直接的に人々の幸せを増やすために使ってみてはどうか?私たちの関心が資本主義ゲームに勝つことよりも幸せになることにあるならば、どうして幸せについての研究にもっと投資しないのだろうか?どうして幸せについての研究成果をもっとビジネスに活用しないのだろうか?
ポジティブ心理学
「幸せについての研究ってなに?」と思った方も少なくないと思う。実はこうした分野の学術的な研究は、主に心理学の分野で行われている。心理学者のマーティン・セリグマンは、それまで心理学が精神病理を中心に扱ってきた状況をヒントに、それとは反対に一般の人々がより幸福に感じるためにはどのような条件が必要なのかを明らかにしようとして、ポジティブ心理学を立ち上げた*5。すでにポジティブ心理学は、幸福感に影響を与える様々な要因を明らかにしてきた。本シリーズの次回記事では、こうした心理学の研究からピークエンドの法則や快楽のトレッドミルなどの概念を取り上げて、私たちの幸福感がどのように形成されるかの理解を試みる。
幸せについて議論をするときに、よく「個人差があるから」とか「いろんな考え方あるよね」という声を聞く。それ自体を否定するつもりはないが、どうか「幸せのような主観的な領域の事柄であっても、科学的・定量的に話ができる部分がある」ということを知ってほしい。「幸福に対する科学的なアプローチ」は簡単ではないけれど着実に、一歩ずつ進んでいる。
両側から掘る
幸せについての研究は、別の方向からも行われている。こちらは心理学よりもはるかに長く、二千年以上の歴史を持っている。哲学と宗教だ。
「両側から掘る」は、ユヴァル・ノア・ハラリ『21Lessons 21世紀の人類のための21の思考』の中の一節で、私はすごく大切な考え方だと思っている。心について研究するときに、現代では心理学や脳科学などに基づき、統計・観察・科学的思考を武器に行うのが一般的だ。だが、私たちは一人ひとつずつ心を持っている。どうして最も身近にある自分の心を、自分自身で観察しようとしないのだろうか?とハラリは言う。うーん確かに。
そして、科学的思考とは別の体系でじっくりと心を観察し続けてきたのが哲学と宗教だ。仏教や道教*6や儒教は、宗教というよりも哲学に近い部分も持っている。キリスト教の清貧やイスラームの喜捨にも、欲望をコントロールして精神の安定を指向する側面がありそうだ。ギリシャやローマや近世以降の哲学では、宗教とは切り離された形で人の精神や幸福について探求した。以前セネカ『人生の短さについて』の感想で言及したように、古代人だって現代人と似たような感性を持っている。なら、二千年生き残った彼らの哲学から学ぶのは合理的な選択ではないだろうか?
幸福について考え、追求するには、哲学と心理学の「両側から掘る」のが有効だ。だから本シリーズでは心理学に加え、次々回以降で哲学についても取り扱う。
問題提起: 世の中の幸せの総量を増やしたい
本シリーズ「幸せな社会をつくるには」では、あなたや私個人がどう幸せな一生を送るかというよりも、私たちが総じて幸せになるにはどのような道のりをたどる必要があるだろうか?ということを考えていく。言い換えると、世の中の幸せの総量を増やすにはどうすればよいだろうか?*7 少し長いシリーズになるが、もし問題意識を共有してもらえそうな方がいれば、残り4回+結論 を通した探求の旅にお付き合いいただけたらと思う。
シリーズ「幸せな社会をつくるには」目次
章タイトル | 公開(予定)日 |
---|---|
序章 幸福の再考 | 2024年4月8日 |
第一章 幸せについて、研究でここまでわかっている | 2024年4月 |
第二章 経済学と幸せの複雑なカンケイ | 2024年4月 |
第三章 経済成長を超えて | 2024年5月 |
第四章 哲学と幸福 結論 |
2024年5月 |
*1:はっきり言ってしまえば自慢、『消費資本主義!』で言うところのシグナリング
*2:幸福とか言うとなんだか宗教っぽく感じるかもしれないけど、本記事では宗教的中立性を保つ。ただ、この後のシリーズでも言及するけれど、宗教という言葉に対する日本人の忌避はちょっと行き過ぎていると思うし、幸福について考えようと言った程度ですぐ宗教を連想するというのは「幸福を科学的に扱う」ことにあまりに慣れていなすぎる。それが問題だと思うから本シリーズを書いているというのもあるが。
*3:自分の生活の平均点と、他人の生活の最高点を比較してしまうことになるのでそもそも勝負になっていないのだけど、フォローしている人数が多いと他人の「完璧な瞬間」がどんどん流れてくるので、これが他人の日常なのか・・・と勘違いしやすい
*4:ちなみに本記事の範疇を超えるので触れるだけにしておくが、SNSを楽しんでやって「マウントをとった」結果他人に不快感を与えることはそれはそれで問題だと思う。成功者は自分の実力も運のうちであることを自覚し謙虚になるべきではないか?
*5:よく誤解されるが、ポジティブシンキングとは無関係。
*6:あんまり詳しくないけど老子・荘子以降は、スピリチュアル寄りの派閥が出てきたみたい
*7:ここではわかりやすさのため、暫定的に幸せの「総量」を増やしたいと表現した。総量を増やすのであれば人口は増えていた方がいいということになる。このほかに、幸せの「平均値を上げる」という考え方もできて、この場合は人口の増加は平均値を押し上げない。この二つの違いは重要だが、見落とされることが多い。第四章の哲学との関連で改めて取り上げる。