思索日記

本を読んで思ったことを書いてます。

2046年の価値観で2026年の行為を裁かれたくない

価値観の更新、速すぎ問題

確か伊集院光の深夜ラジオで聞いた話だが、「コンプラやハラスメントに対する意識の変化」で思ったことがある。彼は「ハラスメントに対する意識やバッシングが強すぎて、こちら側(おじさん側)が敏感になってしまい気軽に誘うことはもう無理になってしまった」「忘年会に誘わないでくれというならともかく、忘年会を開かないでくれとまで言われるともうね」のようなことを言っていた。

一見よくあるコンプラに対する愚痴に聞こえてしまうが、この話を聞いて考えたのは「社会の価値観・倫理観の変化が速すぎて、さすがに色々と不具合が起き始めていないか」ということである。

昔は「世代交代」が価値観を更新していた

時代に合わせて考え方が変化すること自体は昔からあった。ただ、理由はともかく、考え方の変化のスピードは歴史的にみて次第に大きくなっているように思う。

もちろん昔も、大きな出来事によって価値観が急激に変化することはあっただろう。ただ平時では、社会の価値観の変化は、大部分が世代交代――つまり前世代の人間が「死ぬ」ことによって起きていたのではないか。だから考え方の変化のスピードは人間の寿命に左右されていた。

一方で現代では、社会の価値観の更新周期が人間の寿命より明らかに短い。ひとつの人生の中で何度も考え方の変化が起きるようになってきている

過去の自分が古い価値観になっていくのが現代

すると厄介な問題が起きる。昔なら「古い価値観の人」とは、自分より前の世代の人だった。しかし今では、「古い価値観の人」が20年前の自分自身であることがあり得てしまう。

伊集院からラジオつながりで例を挙げよう。爆笑問題が立川談志と初めて会った際、酒がまったく飲めない爆笑問題の二人が、憧れの談志から「3杯飲め」と言われ、田中は吐きながらも酒を飲んだ、という有名な話だ。*1 *2 あれは最後のオチで田中が「今日はいい日だぁ」と言ったことで締められるからいい話として消化されてはいるものの、談志がやっていることは2026年の意識で言えばアルハラ・パワハラとして問題視され、炎上しかねない(というか、まあ確実に炎上するだろうね)内容と言える。ここで考えたいのは、この話自体がいい話なのかハラスメントなのか ではなく、「かつては『いい話』だったものが、現代では『いい話』ではなくなったのか」「かつて『いい話』だったなら、現代の視点からそれをハラスメント話として再解釈していいのか」「仮に現代の視点からハラスメント話ととらえたとして、談志は現代の視点で批判されるべきなのか」である。*3

冒頭話した伊集院光のラジオの件も、実はこの文脈の話だった。「若手を飲みに誘ったら来てくれたが、断れなかっただけで本当は嫌だったと後から言われたら?」「少し前ならこの話は若手側にそんな馬鹿な話あるか、という非があったが、今後は昔やっていたあんなことやこんなことが後になって非難される可能性があると思うと気軽に誘うことは到底無理」と。

過去への遡及

個人的には、かつての出来事について解釈を後から変更したり非難したりすること自体は健全な行いであるように思う。たとえば戦前の明治民法では、妻の法律上の能力が制限されており、一定の法律行為には夫の許可が必要とされた*4が、現代で見ればとんでもない話だ。これに対して「当時は普通だった」と言って甘い評価を与えてやる必要はないだろう。

一方でそれはある意味、出来事だけでなく、そこに関わった人々もすでに「過去の世代」だからこそ、ためらいなく振り返り、批判できるようにも思う。「昔の人はこんなことをやっていた。今から考えればおかしい」と言うのは簡単だ。しかし、ひとつの人生の中で考え方のトレンドが大きく変化し、その変化をまたいで生きている人に「あのときあんなこと言っていた・していたよな?」と非難することについては、どうしても同情の余地があるのではないだろうか*5

世代交代を待たず、ひとりの人間の人生の途中で社会の価値観そのものが入れ替わる。そんなことが過去になかったわけではない。たとえば戦前から戦後にかけての日本は、その極端な例だろう。1945年の敗戦後、それまで学校で正しいと教えられていたことの多くが、短期間のうちに否定された。そこで育った普通の人々は、自分自身の過去をどう理解しただろうか。

戦争や革命なら、このような急激な価値観の転換が起きることは理解できる。だが昨今のハラスメントや人権意識に代表される倫理観の更新も、それを思わせるほどの変革スピードではないだろうか?

20年後には今の自分も古くなるんだぞ

そしてこれは、20年後の自分にも返ってくる問題になる。今の自分が最新の価値観に沿っている、ベストだと思ってした行動が、発言が、書いた記事が、2046年には単に古臭いだけでなく、危険な、気持ち悪い、おかしなものとして糾弾されてしまうかもしれない。

だから伊集院はもう後輩を誘えないと言うし、自分はもうブログを書くのもやめるわ。……なんてことにならないといいね。一生のうちに何度も「自分が正しいと思っていたもの」が古くなる時代を、どうやって生きていこうかね。

*1:太田光代「本の話」 https://books.bunshun.jp/articles/-/10386

*2:太田上田#23 https://www.youtube.com/watch?v=7gm1RLk8Ibk

*3:そしてもう一つ。「当事者が今でも『いい思い出』だと思っているものを、外野がハラスメントと呼んでいいのか」。自分が同じことをされたら最悪。でも、本人たちは今でもいい思い出だと言っている。それを2026年の外野である自分が「いや、それは被害だった」と訂正するのも変じゃないか。

*4:いわゆる「妻の無能力」。

*5:同情としか言えないのが苦しい。現代の価値観では明らかにアウトなことではあるからな。。

海老名市「えび~にゃ商品券 非公式取扱店舗マップ」を作りました

重点支援地方交付金の政策で、わが町にもプレミアム商品券がやってきました。

生活応援!元気いっぱい‼えび~にゃ商品券 の利用期間がはじまりましたが、公式の取扱店舗一覧 にもっと機能を足したかったため 自分で新しい店舗マップを作成しました。

ご利用はこちらから! えび~にゃ商品券 取扱店舗マップ

機能

  • 地図上で閲覧ができる
  • ジャンル・施設・券種(利用者としては大事ですよね!!!)による絞り込み機能

制作期間はAIフル活用で延べ24時間くらいでした。

アプリ公開のお知らせ(おたよりメーカー)

依頼されて作成した成果物を、ちょっと手直しして公開できることになったため置いておきます。

こんな感じの、定型文を組み合わせて文書を作って印刷するためのアプリです。 依頼者様の都合でWindows向けですが要望があればWeb版も用意しようかな。

小規模な通販サイトや宿泊施設のおもてなし、学校などでの利用を想定しています。

簡易的なWYSIWYGエディタもついてます。

ご利用は無料で広告などもありません。ダウンロードはこちら。
おたよりメーカー | Notion

以上!

酷評な謎解きイベントとニンテンドーミュージアムに行って、エンタメとは何か・プロの仕事とは何かを考えた

1. はじめに

昨年8月に、友人グループの中で欠員が出たという理由で、とある謎解きイベントに 数合わせで 参加した。これは大変良いものだった。その時のグループのご縁で、先日別の謎解きイベントに誘ってもらった。私は関東に住んでいるが、そのイベントは京都で行われる。遠征&宿泊を伴う高額な謎解きイベントに、二度めましての新しい友達と参加するのは我ながら行動力あるなと思う。で、行ってみたらいろいろ感想を書きたくなったので書く!

結論。 「イベントは全然よくなかった」 「その次に行ったニンテンドーミュージアムと対比するといろいろ見えてくることがあった」。エンタメとは何か、プロの仕事とは何か について考えさせられる2日間だった。

(念のため断っておくと、再演がないことが公式発表されており、ネタバレは気にしません。また、すでに肯定的・批判的な感想が多数投稿されており、運営に批判されるべきところがあることは客観的に明らかであることから、本稿ではまったく遠慮せずに良いところも悪いところも書きます。)

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ゆとりの知らないmodの世界[ABC357-D攻略]

最近久しぶりに競技プログラミングのオンラインコンテストにリアルタイム参加した。就職前は何度か参加してみたこともあったけれど、実務でプログラムを触るようになってからはあえて趣味でプログラムを書くのもなんかしっくりこなくてやっていなかった。自分の業務で書くようなプログラムは競プロの知識や技能が生きるわけでもなかったし。

業務でプログラムを書くようになったと言ったが、直近は自分で手を動かしてプログラムを書くことがめっきり減って、それで身体がうずうずしたのかもしれない(?)。他の参加動機としては、自分の趣味は読書とかブログといった「実益を兼ねた」趣味ばかりだということに気づいてしまい、単に楽しみのために何かに熱中してみよう!と思ったというのもある。

そんなわけで、AtCoder Beginner Contest の第357回に参加したのだが……

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サピエンス全史が好きすぎて4周したので感想を語る[本紹介・読書感想]

読書好きの一人として知人と話していると、よくおすすめの本を聞かれる。おすすめの本は好きな本とは異なる。どうせおすすめするなら、相手のことをよく知った上で本当の意味で本を薦めるのが私のモットーだ。相手がいかにも好きそうな本を薦めることもあれば、相手の長所に寄り添ってもっとそれを伸ばしてあげられそうな本をそれとなく伝えることもある。だから誰にでもおすすめの本、というのは軽率に言わないようにしているのだけれど、自由に「好きな本を薦めてください」と許可されたら筆頭に挙がる本がある。ユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史』だ。

『サピエンス全史』は2011年にヘブライ語の原著が出版され、次々と多言語に翻訳されベストセラーとなった。日本での反響も大きく、数々のテレビ番組やYouTubeでの紹介, 他の書籍からの言及や引用もされた。著名人による解説や批判も多く、解説書もいくつか出版されている。影響力のある本だ。

つい最近、『サピエンス全史をどう読むか』*1という解説書を読んだ。冒頭に池上彰氏とハラリ氏との対談があり、その後は様々な研究者や論客によるサピエンス全史の解説や見どころ紹介・意見や批判が載っているという構成だ。私はこの本、ぜんっぜん面白くなかった! 論客の頭が良すぎ てつまらない。頭いい人が読むとこういう感じなんだなーという感想。彼らには知の庶民感覚が足りないのだ。

私は今では週1冊程度ずつ本を読む習慣があるのだけれど、この習慣は『サピエンス全史』に出会うまでは存在せず、年に0.3〜2冊くらいしか読んでいなかった。そう、私は本を読む習慣がない時期に本書に出会い、本書からたくさんの影響を受けたのだ。だから私は知の庶民感覚を持っているし、本書から受けたたくさんの良い影響をみなさんに伝えられる。私こそが『サピエンス全史』の面白さを伝えるのにふさわしい(?)

*1:河出書房新社編集部 編「『サピエンス全史』をどう読むか」2017年、河出書房新社

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[幸せな社会をつくるには] 序章 現代における幸福の誤解

今更取り立てて言うまでもなく、SNSでの見せかけの幸福アピールは多くの人にとって何の得にもなっていない。あまり投稿していないという人にとっても、「完璧な瞬間」が次々と流れてくるタイムラインを眺め続けて、自身とのギャップで惨めな思いをした経験がある人は少なくないと思う。まして自分で多少の投稿をする人にとっては、「完璧な瞬間」をシェア*1することの楽しさと虚しさは一度ならず何度も味わったことがあると思う。

ヴィエンナさんのこういう投稿がウケたのは、単に「あるある〜w」というだけではなく、人々がこうしたSNSの「いびつさ」になんとなく気づいていてそれを可視化してくれたからという側面もありそうだ。

SNS疲れという言葉が流行ったのはもう何年前のことだろうか・・・ずいぶん前からこうしたSNSのいびつさは指摘されているが、現在でもSNSの勢いは衰えていない。YoutubeのCMでGoogle Pixelシリーズの紹介として、「消しゴムマジック・音声消しゴムマジックが使えます!」というコピーが今でも使われている。「完璧な瞬間」を作り出すためのツールは相変わらず大人気だ。

youtu.be

先ほどからこうしたSNSにおけるアピールの「いびつさ」の話をしているけど、すでにピンと来ている人もいればピンと来ない人もいると思う。「個人の趣味嗜好の領域だよね?何か問題かな?」と思う人もいるかもしれない。本記事では、「はい。問題大ありです!」という主張を試みる。また、本シリーズでは、こうしたSNSにおけるアピールの問題からスタートし、人の幸福全般についてのより深い理解の必要性を訴え、社会や経済の成長を幸せファーストなものに転換することの提言を試みる。*2

SNSにおける幸せアピール

FacebookInstagramではしばしば「完璧な瞬間」のみが共有され、利用者は他人の投稿を見て自分の人生を比較してしまい、不幸せに感じてしまうことがある。また、「いいね」やコメントの数が自己価値感と強く結びついてしまうこともある。TikTokは短いビデオを共有することに特化したSNSで、クリエイティブな内容や楽しい瞬間が強調されるが、ここでも理想化されたライフスタイルや見栄えの良い映像が強調されがちで、現実とのギャップを感じさせる。(SNSとは少し違うが)YouTubeにおいても、特に「ライフスタイル」や「VLog」のカテゴリでは、理想的な生活や成功体験が強調され、非現実的な期待や比較を促してしまう。

SNSの写真シェアがなかったら、ナイトプールは流行したのだろうか?画像はAI生成

これらの現象から早くも、SNSが幸福に与える影響について、重要な示唆が読み取れる。それは、

  • 人々は幸せを相対評価する。このため、SNSで見られる他人の「完璧な瞬間」と自分のリアルを比較して、惨めな思いをしてしまう。*3
  • 承認欲求を満たすためにSNSに頼ってしまい、自分の価値の指標を外部に預けてしまう

ということだ。さらにSNSにおける相対評価は、「いいね」数の比較という形でも顔を出す。他者との比較&承認欲求充足の合わせ技だ。

「人々は幸せを相対評価する」というのは、人々の心がもともと持っている心理的特性だ。私は本シリーズを通して「社会を幸せファーストに転換する」ことを訴えていくつもりだけど、こうした人の特性を変更することはできないと思っている。だから特性を変えようとするのではなく、理解し制約として受け止めることが重要だ。人々は幸せを相対評価してしまうけれど、それが負の影響を及ぼして暴走するのを防ぐにはどうすればよいだろうか?と考える。

ポピュラーカルチャーと広告

映画、テレビ、Youtubeなどのポップカルチャー、街中やメディア上の広告では、成功や愛や美といった要素が頻繁に描かれる。こうした消費主義的な文化は、幸福に関する私たちの理解を曇らせて欲求をコントロールし、特定の方向に向かってねじ曲げる。この過程は、以前に『消費資本主義!』の本の解説で取り上げた。

tomato10.hatenablog.com

たとえば映画やドラマではしばしば、「成功したキャリア」と「完璧な恋愛」が幸福の象徴として描かれる。映画『ラ・ラ・ランド』では、主人公たちの成功と恋愛関係、夢と現実の関係や幸福の追求を描いている。贅沢なライフスタイル、派手なパーティー、高価な車やブランド品などが、成功や幸福の指標として提示されることも多い。

広告の中でもとりわけ脱毛と転職の広告は、こうした文脈の中でしばしば取り上げられる。脱毛広告は「理想の美」を提示し、それに沿わない身体を持つことをコンプレックスとして捉えるべきだというメッセージを伝える。完璧な肌の状態が社会的な成功や幸福感に直結しているかのような印象を与え、個人が自身の外見に対して不必要なプレッシャーを感じるよう仕向ける。転職広告は、現在の職場やキャリアパスに満足していない人々に向けて、新たな仕事を通じて「真の成功」や「満足」を得られるというメッセージを発信する。

一時期、電車は脱毛広告だらけだった

これらは視聴者に、物質的な豊かさや華やかな生活が幸福の源泉であるかのような誤解を与えかねない。真の幸福感は外見やキャリアの成功、物質的な豊かさだけに由来するものではなく、人生の意義のような内面的な充足感や自己受容、他者との良好な関係等から来るものだ。次回の第一章では、こうした幸福感に関する心理学的な知見のいくつかを紹介する。

先ほどSNSの項で「問題大ありです!」と書いたのは、SNSを楽しんでやっている人が問題だというよりは*4、「人の幸福は相対評価に影響を受ける」「成功・完璧・華やか が重視される」という事実から、SNSの問題点が見えてくるよね、という意味だった。SNSポップカルチャーや広告の例で見たように、私たちの日常には「幸福についての誤った物語」が埋め込まれている。

なぜ幸福に対する正しい理解が必要なのか

SNSポップカルチャーや広告を駆使したマーケティングにより、人々の欲望をハック&コントロールして不必要なコンプレックスを刺激された結果、他人と比較してしまって不幸になる。マーケティングする側も望んでやっているというよりは、そうまでして需要を作り出さないとライバルとの競争に負けてしまう。詰んでる!地獄か??

これまで人類は無数のイノベーションを起こし、飢饉や洪水のような重大な問題から、「自分が送ったテキストメッセージが他人に読まれたかどうか今すぐ知りたい」といった些細な問題まで解決してきた。しかし需要を見つけ出しイノベーションを起こし続けるという営みは、本当にいつまでも持続可能なのだろうか?

・・・いや、ちょっと問題提起を間違えたな。いつまでも持続可能なのか?というよりも、いつまでもイノベーションを起こし、経済成長を続けなければならないのだろうか?現代の資本主義社会を前提にした場合、この問いに対する答えは”Yes”となる。だがその理由は、「経済成長が人々の幸福に結びつくから」ではなく、「成長し競争に勝つことが宿命づけられている」からだ。言い換えれば、資本主義というゲームのルールがそうなっているから、に過ぎない。

私は、この状態がすごく勿体ないと思う。資本主義ゲームに勝つためだけに、どれだけ多くの人の才能を無駄にしているのだろうか?その才能と時間があるなら、もっと直接的に人々の幸せを増やすために使ってみてはどうか?私たちの関心が資本主義ゲームに勝つことよりも幸せになることにあるならば、どうして幸せについての研究にもっと投資しないのだろうか?どうして幸せについての研究成果をもっとビジネスに活用しないのだろうか?

ポジティブ心理学

「幸せについての研究ってなに?」と思った方も少なくないと思う。実はこうした分野の学術的な研究は、主に心理学の分野で行われている。心理学者のマーティン・セリグマンは、それまで心理学が精神病理を中心に扱ってきた状況をヒントに、それとは反対に一般の人々がより幸福に感じるためにはどのような条件が必要なのかを明らかにしようとして、ポジティブ心理学を立ち上げた*5。すでにポジティブ心理学は、幸福感に影響を与える様々な要因を明らかにしてきた。本シリーズの次回記事では、こうした心理学の研究からピークエンドの法則快楽のトレッドミルなどの概念を取り上げて、私たちの幸福感がどのように形成されるかの理解を試みる。

セリグマンによる「ポジティブ心理学の挑戦」ではポジティブ心理学の誕生、ウェルビーイングの主要な構成要素などが語られる

幸せについて議論をするときに、よく「個人差があるから」とか「いろんな考え方あるよね」という声を聞く。それ自体を否定するつもりはないが、どうか「幸せのような主観的な領域の事柄であっても、科学的・定量的に話ができる部分がある」ということを知ってほしい。「幸福に対する科学的なアプローチ」は簡単ではないけれど着実に、一歩ずつ進んでいる。

両側から掘る

幸せについての研究は、別の方向からも行われている。こちらは心理学よりもはるかに長く、二千年以上の歴史を持っている。哲学と宗教だ。

「両側から掘る」は、ユヴァル・ノア・ハラリ『21Lessons 21世紀の人類のための21の思考』の中の一節で、私はすごく大切な考え方だと思っている。心について研究するときに、現代では心理学や脳科学などに基づき、統計・観察・科学的思考を武器に行うのが一般的だ。だが、私たちは一人ひとつずつ心を持っている。どうして最も身近にある自分の心を、自分自身で観察しようとしないのだろうか?とハラリは言う。うーん確かに。

そして、科学的思考とは別の体系でじっくりと心を観察し続けてきたのが哲学と宗教だ。仏教や道教*6儒教は、宗教というよりも哲学に近い部分も持っている。キリスト教の清貧やイスラーム喜捨にも、欲望をコントロールして精神の安定を指向する側面がありそうだ。ギリシャやローマや近世以降の哲学では、宗教とは切り離された形で人の精神や幸福について探求した。以前セネカ『人生の短さについて』の感想で言及したように、古代人だって現代人と似たような感性を持っている。なら、二千年生き残った彼らの哲学から学ぶのは合理的な選択ではないだろうか?

幸福について考え、追求するには、哲学と心理学の「両側から掘る」のが有効だ。だから本シリーズでは心理学に加え、次々回以降で哲学についても取り扱う。

問題提起: 世の中の幸せの総量を増やしたい

本シリーズ「幸せな社会をつくるには」では、あなたや私個人がどう幸せな一生を送るかというよりも、私たちが総じて幸せになるにはどのような道のりをたどる必要があるだろうか?ということを考えていく。言い換えると、世の中の幸せの総量を増やすにはどうすればよいだろうか?*7 少し長いシリーズになるが、もし問題意識を共有してもらえそうな方がいれば、残り4回+結論 を通した探求の旅にお付き合いいただけたらと思う。


シリーズ「幸せな社会をつくるには」目次

章タイトル 公開(予定)日
序章 幸福の再考 2024年4月8日
第一章 幸せについて、研究でここまでわかっている 2024年4月
第二章 経済学と幸せの複雑なカンケイ 2024年4月
第三章 経済成長を超えて 2024年5月
第四章 哲学と幸福
結論
2024年5月

*1:はっきり言ってしまえば自慢、『消費資本主義!』で言うところのシグナリング

*2:幸福とか言うとなんだか宗教っぽく感じるかもしれないけど、本記事では宗教的中立性を保つ。ただ、この後のシリーズでも言及するけれど、宗教という言葉に対する日本人の忌避はちょっと行き過ぎていると思うし、幸福について考えようと言った程度ですぐ宗教を連想するというのは「幸福を科学的に扱う」ことにあまりに慣れていなすぎる。それが問題だと思うから本シリーズを書いているというのもあるが。

*3:自分の生活の平均点と、他人の生活の最高点を比較してしまうことになるのでそもそも勝負になっていないのだけど、フォローしている人数が多いと他人の「完璧な瞬間」がどんどん流れてくるので、これが他人の日常なのか・・・と勘違いしやすい

*4:ちなみに本記事の範疇を超えるので触れるだけにしておくが、SNSを楽しんでやって「マウントをとった」結果他人に不快感を与えることはそれはそれで問題だと思う。成功者は自分の実力も運のうちであることを自覚し謙虚になるべきではないか?

*5:よく誤解されるが、ポジティブシンキングとは無関係。

*6:あんまり詳しくないけど老子荘子以降は、スピリチュアル寄りの派閥が出てきたみたい

*7:ここではわかりやすさのため、暫定的に幸せの「総量」を増やしたいと表現した。総量を増やすのであれば人口は増えていた方がいいということになる。このほかに、幸せの「平均値を上げる」という考え方もできて、この場合は人口の増加は平均値を押し上げない。この二つの違いは重要だが、見落とされることが多い。第四章の哲学との関連で改めて取り上げる。