思索日記

本を読んで思ったことを書いてます。

サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福

「サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福」は、イスラエル歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリ氏による、人類史の書籍です。 人類史というと以前このブログでも紹介した「銃・病原菌・鉄」のようなテーマですが、サピエンス全史はサブタイトルにもあるように、そこから 人類の幸福について まで話が及びます。

本書との出会いについて

私が本書のタイトルを最初に耳にしたのは、TBSラジオの「荻上チキ・Session22」で、池上彰氏がゲストの回でリスナーからのメールに「池上さんオススメの本を教えてください。ちなみに私が読んで面白かったのはサピエンス全史です!」というようなメールがあったことがきっかけでした。 実際に本書を手にとったきっかけは、中田敦彦氏のYoutube大学で本書が動画テーマとして取り上げられたことです。動画は全3回なのですが、1回目の動画をちょっと見たときに「この本は普通に自分で読んだほうが面白そうだな」と直感的に思ったのでした。それでKindleで迷わず購入しまして、自分の思った通り爆発的に面白かったです。

実はこの感想を書いている時点で、サピエンス全史を2周完走しています。1周読み終わった時点であまりに面白かったので、何かの形で感想をアウトプットしたいと思ったのがこのブログを書いているきっかけでもあります。そしてあまりに好きすぎて、1周読んだだけでは本書の魅力を語りきれないと思い、2019年に読み終わってからしばらく寝かせ、じっくりと2周目を読み終わって今感想を書いています。

この感想文について

今回は感想文なのでネタバレ全開で行きます。すでに本書を読んだ人向けの内容になっています。 まだ読んでいない人は、 かなりオススメの本なので是非ご自分で読むことを推薦します。 とはいえ、本書はかなり長いというのも事実ですし、挫折した人もいるかもしれません。あっちゃんの動画はかなり良くできているので、悔しいですがそれで内容を知るのもいいでしょう。

本感想文では、サピエンス全史のどこが面白いかについて語り、それから私なりに本書から何を得たのかを書いてみます。 ストレートに本書を読むと、あっちゃんの動画にもあるようにとにかく「認知革命」「あれもこれも虚構」という考え方に衝撃を受けると思うのですが、この感想文では そこはもうみんな体験済みということであえてあまり触れず、 少しマニアックな見方をしてみたいと思います。

ジョークや言い回しの面白さ

まずは本書の面白さについて振り返っていきます。ジャブとして、ハラリ氏によるジョークや言い回しの面白さについて。

本書はとにかくウィットに飛んだジョークや秀逸な言い回しがたくさん散りばめられています。内容や言い回しがほどほどにレベルが高い(きちんと文の内容を理解して、前提知識がないと笑えない)ものもあったりするので、 理解できると思わずニヤッとしてしまいます。 その絶妙なレベル調整具合が、ハラリ氏の高い文章力(と訳者である柴田氏の翻訳力)を感じさせます。

どんなものがあるか、一例を少し紹介してみます。ジョークの説明ほど野暮なものはないけど気にすんな!

チンパンジーホモ・サピエンスを言い負かすことはできないが、縫いぐるみの人形のように引き裂くことができる。

チンパンジーホモ・サピエンスを言い負かすことはできないが、縫いぐるみの人形のように引き裂くことができる。

サピエンス(ホモ・サピエンス。以下、本書に倣ってサピエンスと呼ぶ)の脳は、そのデリケートさや大きさ、カロリー消費量を考えると進化上あまり割に合っていないことを指摘した文脈です。二頭筋にかける資源の一部をわざわざ脳のニューロンに回す理由は、なんだったのだろうか?チンパンジーとサピエンスの身体的能力の特徴を端的に表した文だと思います。

サルが相手では、死後、サルの天国でいくらでもバナナが食べられると請け合ったところで、そのサルが持っているバナナを譲ってはもらえない。

サルが相手では、死後、サルの天国でいくらでもバナナが食べられると請け合ったところで、そのサルが持っているバナナを譲ってはもらえない。

サピエンスの大きな脳のおかげで、私たちは自動車や銃といった発明を生み出すことができました。しかし、自動車も銃も最近の発明であり、そこまでの何十万年といった年月にわたる脳の貢献を説明できていません。本書をすでに読了済の方はご存知の通り、その貢献の本質は 認知革命 にありました。その認知革命の説明の序盤に登場したジョークがこちらです。

認知革命により、サピエンスは物語を信じるということが可能になりました。サピエンス以外にも言葉を用いる動物はいるけれど(例えば鳥類やイルカなど)、サピエンスの言語が決定的に優れていたのは、物語を語り、他者から聞いた物語を集団で信じることができるようになったことでした。言語における動物とサピエンスの決定的な違いを表した文だし、思わずクスッときてしまいます。

プジョー伝説

フランスの自動車メーカー、プジョーは、実体を持たず人々の想像の中に存在するという点でキリスト教の神と全く同じです。それが存在するという儀式を執り行うことでスタートし、人々はそれが存在しているかのように振る舞う ところもそっくりです。そのことを指摘するための文章がよくできていたので紹介。

フランスの司祭たちの場合には、肝心要の物語は、カトリック教会が語ったとおりの、キリストの生涯と死の物語だった。この物語によれば、聖なる服に身を包んだカトリックの司祭が適切な瞬間に適切な言葉を厳粛に口にすれば、平凡なパンとブドウ酒が神の肉と血に変わるという。司祭が「ホク・エスト・コルプス・メウム!(「これは私の身体だ!」という意味のラテン語)」と唱えると、あら不思議──パンはキリストの肉に変わった。司祭がすべての手順を滞りなく熱心に執り行なうのを目にした何百、何千万ものフランスの敬虔なカトリック教徒は、聖別されたパンとブドウ酒の中に神が本当に存在しているかのように振る舞った。

プジョー SAの場合、決定的に重要な物語は、フランスの議会によって定められたフランスの法典だった。フランスの立法府の議員たちによれば、公認の法律家が正規の礼拝手順を踏み、儀式を行ない、見事な装飾の施された書類に必要な呪文や宣誓をすべて書き込み、いちばん下に凝った署名を書き添えれば、あら不思議──新しい会社が法人化された。一八九六年に会社の設立を思い立ったアルマン・プジョーは、法律家を雇って、こうした聖なる手順を一つ残らず踏ませた。その法律家が正しい儀式をすべて執り行ない、必要な呪文と誓いの言葉を残らず口にし終えると、何百、何千万もの廉直なフランス市民が、プジョー社が本当に存在しているかのように振る舞った。

単に教会とプジョーが似ているという視点も画期的なのですが、それをご丁寧に同様の構造の文章でなぞるところが、なんとも嫌味ったらしくて(?)面白いですね。

家族主義から個人の時代へ

本書の画期的な点はやっぱり「認知革命」「大きなスケールで、個別のトピックが線で結ばれていく」ところにあると思っているのですが、実は個別のトピックの考察もよくできていると思います。二周目読んだことにより、少し冷静に個別のトピックについて読むことができた気がします。特に第18章の「個人の台頭」は、二周目で面白さに気付いたところです。

さて、一般的に現代の日本で「行き過ぎた個人主義」と言われる時は大抵、近代以前の伝統的な家族観が失われていくことを嘆く文脈で使われるように思います。 一般的に個人主義とは、家族やコミュニティの発展よりも個人の尊厳を尊重する考え方のことです。 個人主義が成り立つためには、個人の持つ力が家族やコミュニティよりも強くないといけません。近代以前は家族やコミュニティの持つ力が強大すぎて、それ抜きでは個人として生きていくことができませんでした。 家族やコミュニティが持っていた機能は、現代では考えられないほどたくさんあったのです。

家族は福祉制度であり、医療制度であり、教育制度であり、建設業界であり、労働組合であり、年金基金であり、保険会社であり、ラジオ・テレビ・新聞であり、銀行であり、警察でさえあった。

※私は「我が子」が福祉と年金であるという考え方は全然持っていなかったので、この文をただ感心して読んでしまいました。

しかしながら、家族やコミュニティから迫害されると、こうした機能の恩恵を受けることができず、その人は死んだも同然になってしまいました。また、家族やコミュニティの内部は平穏そのものでは全然なくて、争うことはしばしばありました。暴力沙汰になることもありました。

それでは、現代に至るまでの間に、どうやって個人の持つ力が家族やコミュニティよりも強くなったのでしょうか?これは2020年現在も(強くなっていくプロセスが)進行中のことなのであまり気が付かないかもしれません。 それは、 上述のような、比喩として書いた家族の役割を、そっくりそのまま国家と市場に委ねる ことで実現したのです。

つまり、比喩として書いた一つ一つーー 福祉制度、医療制度、教育機関、建設業者、労働組合、年金基金、保険会社、ラジオ・テレビ・新聞、銀行、警察ーーが家族やコミュニティから独立し、国家や市場の役割になりました。そのおかげで、私たちは個人として生きていくことができるのです。 国家や市場が強大になることを個人主義者は危惧しがちですが、よく考えてください。国家や市場はむしろ、個人に力を与える源泉なのです。

ロマン主義の文学ではよく、国家や市場との戦いに囚われた者として個人が描かれる。だが、その姿は真実とはかけ離れている。国家と市場は、個人の生みの親であり、この親のおかげで個人は生きていけるのだ。

資本主義は「経済は成長し続ける」という教義を持った現代の宗教

私が資本主義という言葉を最初に習ったのは中学生の時だったでしょうか(たしか、週刊こどもニュースを見ていたから、言葉だけは小学生の頃に知っていたかもしれませんが)。当時は確か、社会主義との対比で教わったような気がして、「資本主義」自体は大した意味を持たない言葉でした。 その後少しずつ意味がわかってきて、資本主義を支える基本原則は市場であり、現代の国家は資本主義国家が多数派で、私の住む日本も資本主義国家であり、私たちは資本主義にどっぷり浸かっていることを理解しました。あまりにどっぷり浸かっているので、「お金を稼ぐことはいいことだ」「お金を稼げば幸せになれる」という教義は今では不変の真理のように思えてなりません。

本書を読んでいればなんとなくでもわかりますが、資本主義をはじめとしたイデオロギーは本質的には中世の宗教となんら変わりありません。(1周目読んだときにはこの考え方が衝撃的でした)
さて、本書を読んで改めてとらえ直した資本主義の教義と原則はこんな感じでしょうか:

  1. お金を稼げば幸せになれる。
  2. お金を稼いだら投資をしよう。投資をすれば、もっと効率よく稼ぐことができる。そうすれば、さらに幸せになれる。
  3. これまでの人類の歴史は、進化の歴史だった。経済的に進化し続ける(=成長し続ける)ということは、これまでもこれからも(ペース的な浮き沈みはあるにせよ)変わらない。
  4. 経済的に成長することで、さらに幸せになれる。

注目すべきだと思ったのは3つ目の項目です。本書に書いてある過去の衝撃的事実として、 中世以前は「世界は成長し続ける」という考え方がなかったようなのです。むしろ、世界は基本的に停滞していて、大極的には破滅に向かっていると考えられていました。 ちなみに、この考え方はキリスト教に見ることができます。

つまり、成長し続けるという考え方は昔からあったものではないし、別に当たり前でもない。現代の人間が自分たちに都合よく作り出した物語だということです。本書を読めばわかりますが、この都合の良い物語は正のフィードバックを生み、本当に成長のサイクルを生み出すことができました。しかし、そのサイクルは限界が近づいているのではないかと思っています。

行き着いた先にあったのは消費主義でした

19世紀と20世紀の驚異の経済発展で、世界の貧困はかなり減少し、生活レベルも大きく向上しました。世界はもう、余剰のモノとエネルギーで溢れています。 物的には足りていても、なお商品を買わせることで成長し続ける。 買うものがなかったら買いたくさせる。買いたいものがなかったら作る。 現代の"成長"のエンジンは、この無理やりな 消費主義 の原動力によって回されています。これは単に20世紀以前の経済発展の惰性に見えてならないのです。

だが、引き換えに本当に楽園が手に入ると、どうしてわかるのか?それは、テレビで見たからだ。

なぜそれを買いたく思うのか?それはテレビで見たからでしょう。 自分で本当にそれが欲しいと思いたくて思っているのか、よく考えてみた方がいい。

(21Lessonsからの引用になってしまうけど、)あなたはコカコーラと聞いて、どんな情景を思い浮かべるでしょうか?健康な男女がビーチで楽しそうに爽やかに飲んでいる情景?それとも、肥満のアメリカ人がピザと一緒に飲んでいる情景でしょうか? 実態に近いのは間違いなく後者だけど、コカコーラのブランドイメージはまさに前者の方です。コカコーラと聞いて前者の情景を思い浮かべるタイプの人は、自分がいかにメーカーの広告戦略に乗せられているか(そして、自分の購買行動・・・いや自分の購買 意思 がいかにメーカーの広告戦略に影響されているか)をよく省みるべきです。コカコーラを飲んでも健康にはなれない。あなたがそれを欲しいと思うのは、あなたが見た広告が語るストーリーを気に入っているということにすぎません。そして、そのストーリーは大抵の場合、真実ではないのです。

幸福について真剣に考える

本書から私が受けた影響についてなのですが、本書で真剣に幸福について考察しているのをみて、それがきっかけでファスト&スローを読もうと思った、ということがあります。また、幸福に働くということについて考えたくて、「活動的生」(ハンナ・アーレント)を読んでみたりもしました(まだ読みきれてないけど)。

幸福についての研究はスタートしたばかりで、確実なことはあまり言えないように思います。いろいろなことが言われています(本書と本書以外のところとごちゃ混ぜになってしまっているかもしれませんが):

病気と幸福

病気は病状が悪化しているときに幸福に対して大きな悪影響を与える。しかし、慢性的な病気は大きなマイナス影響を与えない。(というようなことはファスト&スローにも書いてあったような)

実は自分の父も半身不随(脳出血の後遺症による半身麻痺)で車椅子生活だけど、全然不幸せそうには見えないです(笑) もちろん、車椅子や片手のみの生活で大変不便そうにはしているけれど、それによる幸福への影響はそんなに大きくなさそうに思います。

幸福の生物学上の意味: 幸福は、生物学上は繁殖と生殖に賞罰を与える程度の意味しかない。

だから現代人は(もちろん過去の人間も含めて)全員常に幸せ、ということは絶対にあり得ない。幸せで満ち足りたら繁殖と生殖をしなくなってしまうからです。残念ながら、「一人でも幸せ遺伝子」は子供を生まないので、幸せなのにも関わらず受け継がれてはいかないのです。

繁栄すれば幸福ということもない。それは農業革命の章で紹介されましたね。家畜は地球上の動物の中で最も個体数が多いレベルになりましたが、とても幸せとは考えにくいです。

幸福は結局のところ期待によるところが大きい

例えば恋愛や結婚で、パートナーに嫌いなところがあって「もっとこうして 欲しい 」と思ったりするのは、自分の期待を相手に押し付けてしまっているわけで、結局それはパートナーの問題ではなく自分の問題だったりするわけです。期待値を下げ、ありのままの相手を愛することができたら、恋愛や結婚生活はもっと充実したものになるんじゃないかなーと思います。「どうやって期待値を下げるのか?」「どうやってありのままの相手を愛することができるのか?」という肝心の方法論については、なかなか難しいと思いますけどね。

テレビやFacebookの影響で、キラキラした生活を観過ぎているのは非っっっ常に悪影響がある

消費主義のところでも書きましたが、私たちは画面を通じて大量のブランドストーリーに触れています。テレビやFacebook, インスタグラムといったメディアをちょっと眺めるだけで、憧れるようなキラキラした生活が勝手に目に入ってきてしまいます。多分、自分のありのままの生活は、そのようにしてメディアを通して無意識化に入り込んだ「憧れの生活」と無意識のうちに比較されるようになっていき、生活の満足度を下げるということは大いにあると思います。羨ましいと思わない方が幸せだよ?羨ましいと思わないためには、観ないのが一番だよ?というのが、本書を読んで幸福について考えた1つの結論です。

これから自分はどうしよう?

狂信的な資本主義から降りたい、しかし。。

本書を読んでなんとなく消費主義の いびつ さに気づいたところで、「お金を稼ぎさえすれば幸せになれる、という狂信的な資本主義から降りたい!」と思うようになってきました。消費主義から降りて、自分なりに効率よく幸福になりたい、(ボードゲーム的に言えば)勝利点を稼ぎたい、と思うようになりました。

しかし、厄介なことに資本主義や消費主義は自分だけで降りるというわけにはいかないと思います。他人を巻き込まないと、孤立してしまう。 例えば夫婦で旦那は資本主義から降り、物質的には質素な暮らしをしたい(その代わり、家族や友人との恵まれた人間関係を大切にする気だ)と考えていても、嫁がそうしたくなくておいしいものたくさん食べたい!キラキラした生活したい!と考えていた場合には、この婚姻関係はうまくいきそうにありません。 そして、この旦那のようなタイプの人間てそんなにたくさんいないような気がします*1。この「お金を稼ぎさえすれば幸せになれる」というストーリーは、多くの人が信じており、その考えをひっくり返すよう説得するのはかなり難しいです。なので、私自身が狂信的な資本主義から降りたいと思っていても、それを実現するのは困難だと思っています。とりあえず年収がある閾値を超えたら、年収向上による幸福度の上昇差分は平均してゼロになる*2らしいので、もしそれを超えたら頑張るのをやめるつもりです。

キラキラした生活に触れない、観ない

「憧れるような生活を渇望しない」という考え方は酸っぱいぶどう的に聞こえるかもしれませんが、そうではないです。この結論に達した理由の1つはすでに書いたとおりで、期待を上げないことで幸せにつながりそうだという観察に基づいた仮説に則っているためです。*3

生活レベルの向上は一定レベルを超えると幸福に影響しないことを思い出そう。憧れるような生活に登場するアイテムを「欲しい」と思うのは、それが本当に欲しいからではなく、ブランドストーリーを気に入っていてそれを信じさせられているだけだということを肝に銘じよう。私が本書を読んで幸福について考え、自分が取れるアクションに具体的に落とし込んだ結論はそんなところです。

奥付

サピエンス全史(上) ー文明の構造と人類の幸福
著者 ユヴァル・ノア・ハラリ
訳者 柴田裕之
河出書房新社
発行 2016年

www.amazon.co.jp

サピエンス全史(下) ー文明の構造と人類の幸福
著者 ユヴァル・ノア・ハラリ
訳者 柴田裕之
河出書房新社
発行 2016年

www.amazon.co.jp

*1:いたら友達になろう

*2:たしかファストアンドスローより

*3:仏教もこの結論を支持している